2010年8月17日火曜日

第1回 紙のジャズ ライブ観戦記 渋谷オーケストラ 後編

紙のジャズ 第1回 渋谷毅オーケストラ 観戦記 後編 



McLean Chance、渡部信順





MC 渋谷さんもジャズを聴いたときにパウエルみたいに弾きたいとかね、間違いなくあったと思うのね。

渡 そりゃ、あるでしょう。

MC ジャズピアノを日本でやろうとして、ジャズのアルバムを聴く。たとえば、ビル・エヴァンスを

聴いたら彼みたいに弾きたいじゃないですか(笑)。

渡 僕だってそうだもん(笑)。

MC あこがれのミュージシャンがいて、それを真似しようとする。そこまでは他のジャンルと変わら
ないと思うけども、ジャズにはアドリブってものがある。多分、取り組んで気行く途中で気づくんでしょうけど、「パウエルみたいにできるのか」と。彼のやっていることは、1950年代のニューヨークで活動していた黒人だってできなんですから。バリー・ハリス(1929年生まれのピアニスト。絶妙なタメの聴いた、都会的で洒脱なスタイルを持つ)だってできなんだから。だから、どうしなきゃしけないのかってことになっていった。その試行錯誤が、「ハードバップ」になったんだと思うのよ。日本人の渋谷さんは、そこに国が違う、人種が違う―これは、アメリカの白人も考えざるを得なかったと思うのだけど―という問題があったからね。

渡 ある種の諦観はみんなあったでしょうね。ビル・エヴァンス(1929~1980年。バド・パウエル以
後のピアノスタイルを確立した、白人ピアニストの最高峰)がボビー・ティモンズみたいに弾ける
わけないし。

MC そうそう。

渡 自分のスタイルでしか弾けないという諦観があって初めてジャズピアノに達するのかもしれない
ね。

MC 外国人でジャズやるってことはそういうことだよね。

渡 「ジャズをやる」ってことは、結局そうやって自分のスタイルを作っていくことなんだね。

MC 日本人は日本人として獲得していくほかないよね。絶対にネイティブにはなれないんだから。
ネイティブなジャズ族にはね。

渡 そうね。

MC ヘタをすると、アメリカ人ですら、今では日本人と同じですよ。だって、生活にジャズが満ち溢
れてはいないんだから。黒人ですら、バークリー音楽院行って、ジャズの勉強してんですから。

渡 そうだよね。

MC 気づいてたら俺はラッパを吹いていて、それはジャズでした。なんてことありえないもん(笑)。

渡 ありえないねえ。

MC 黒人にとって、音楽やることは、ジャズ以外ありえなかったのよね。そうでなけりゃブルースと
かR&Bだもん。クラシックなんてありえないもの。だからこそ、あれだけの人間が集まっちゃった。
日本は、外国から輸入された洋楽というか、そういうものとしてはいってきて(注1)、そっからはじめなきゃいけなかったから、明治維新以来の西洋文化受容とおんなじなんですよ。

渡 ビ・バップの頃は、ジャズはその場に生きていたんだけど、今は伝統芸能になってるところはあ
りますよね。

MC ビ・バップはジャズ族の中でも、とりわけ「お前らとは違う」ってことを言っている連中だから。
ファッションとか言葉遣いで差別化してたからね。

渡 後の人はそれを必死こいて習得するよりほかないと。

MC 渋谷さんの若い頃は、マイルスが頂点に君臨していた頃だから。

渡 でも、過去の遺産を摂取して、イディオム増やすってことはすでにあったよね。それがジャズに
なっていくと。ジャズの本質から外れてくると。

MC なるほどね。そりゃそうだろうね。難しいところだけど。

渡 やむにやまれずやっていたのとは違うだろうし。

MC いろんな音楽がある中で、渋谷さんはジャズ選んでるんだよね。

渡 そうだよね。

MC 渋谷さんは、作曲家としても評価高いですから(『嫌われ松子の一生』で日本アカデミー賞最優秀作曲賞を受賞)。そういう意味では、ハイブリッドなあり方だよね。まあ、1つのことだけって人のほうが今はむしろ少ないような気がするけども。そういう意味で言えば、渋谷オーケストラは、か
つてのジャズメンの持っていた切迫感からは解放されてるよね。

渡 外国の音楽として摂取して、その上でどう楽しんでいけるのか。ということを極めてポジティブにとらえている。

MC ジャズをカッコでくくって、というか、ハービー・ハンコックからしてそういうとらえ方なんだけども(注2)、ヘタするとハンコックはそのまんまクラシックいっちゃっていた可能性があったわけよ。「異色の黒人クラシックピアニスト」として。

渡 でも、まだこの頃のジャズは、めちゃくちゃ力あったわけでしょ?

MC ハンコックにはそうは見えなかったんだろうね。黒人にしてはかなり裕福な家庭であったというのも大きいでしょうけども、それに生い立ちからして猛烈なブラックネスなんてないだろうし。だから、ハンコックも、カッコでくくったジャズをやっているんですよね。だから、マイルスのやってることをすぐ理解できたんだと思いますよね。マイルスも裕福どころかめちゃ金持ちのボンボンですから。

渡 マイルスの60年代クインテット(マイルス以下、ウェイン・ショーター(ts)、ハービー・ハンコック(p)、ロン・カーター(b)、トニー・ウィリアムズ(drms)を指す)はすごいよ。各人が個性を思いっきり発揮しながら、それでいてものすごく一体感があるんだから。

MC トニー・ウィリアムズが「お前はもっと練習たらすごくなる」とか、マイルスに説教したらしいからね。はなしが横道にそれてますが(笑)、渋谷さんも同じことを抱えていたんだと思います。それが結実したのが、このオーケストラなんでしょうね。

渡 あと、渋谷さんの作曲がないんだよね。

MC ないよね。1曲もないね。作曲家なんだけども。

渡 そこもカギででしょうね。

MC 作曲をこのオケに持ち込むと渋谷色が強くなりすぎることをきらってるんでしょうね。ここでソロを取れとか、こういう風に演奏しろとか、言いたくなるのが嫌なんだろうね。そうなっちゃうと、みっちり練習せざるを得ないから。自分好みのメンバーに全部変えちゃうことになる。

渡 このオーケストラにはそれがゼロに等しいよね。

MC フリージャズってのが、怒りの表現に収斂したことにきづいちゃったということもあるでしょう。

フリーに一番なりにくいピアノやってるってのもあるし。セシル・テイラー(1929年生まれのピアニスト。エリントン、モンクの影響下、クラシック、現代音楽をも吸収した、驚異的なスタイルを確立した、フリージャズピアニストの巨人)しかできないよね、あれは。

渡 かなり危険なあり方でなりたってますよね、渋谷オーケストラは。

MC 古澤さんのドラムはバンドの推進力ですらない。私だったら彼じゃない人にしますけども(笑)。ですから、根っから渋谷オーケストラ好きになりましたかというと、それはないですね。

渡 そこをどうとらえるかで評価が分かれる音楽ではありますね。

MC どうしようもなくだらしないところに流れていきかねいないですからね。ま、あの演奏に一番反感を持ってるのは、津上さんかもね。真逆だもんね、演奏が(笑)。そもそも、古澤さんに合わせるも合わせないも自由なんじゃないの?っていうことをいってるのかもしれないけどね。ある意味、一番厳しいっちゃあ厳しいよね。ま、みなさん、合わせない方向でやってるようですが(笑)。始めからこういう風にやってるのかどうなのかは、聴いていないのでわからないけども、ここではほとんど何にも知らなで聴いてみたらどういうことがいえるのか。ってことに主眼を置きましたから。

渡 印象というのを言葉に置き換えるのは難しいことだからね。

MC 手前味噌になりますけど、「紙のジャズ」をやってることの意義はそこですから。いきなり聴いて見て、何がいえるのか。どういうことなのかを正確に述べる。与えられたお題に対して、どう考えるのか。音源として何を提示すればいいのか。で、いきなりそれを聴いてどうなのか。それは、聞いた事のあるものなのかもしれないし、そうでないのかもしれないし。それを用いて、どう組み立てるのかすらもわからないからね。

渡 そろそろ結論も見えてきましたから、まとめに入りましょうか。

MC 崩壊寸前のギリギリで成立しているオーケストラで、アンアンブルもバチッと決まっていない。アレンジも最低限度。これをずっとやり続けている。そこが、このオケの怖さでしょうね。ジャズの様式じゃないところで、渋谷さんは深くジャズを理解していると思いますよ。ブルースとかが身体感覚として身についていない人間にとってのジャズってことだと思います。

渡 ゆるさが魅力でもあるんだけどね。

MC  うまくはまったらかっこいいんでしょうね。実際、そういう瞬間はあったから。ベースと、ドラムは私の好みじゃありません。あの叩き方だったら、ジャズじゃない音楽の方が相性がいいと思うのよ。で、私はそこまで付き合う気はないってことです。いいか悪いかは別問題です。渋谷さんは別の形でまた聴きたいと思いました。松本治さんとは明らかに相性良いよ(注3)。

渡 あのよたれ気味のリズムを渋谷さんは許してるんですよね。そういうことなんですよね。

MC その辺は今売れっ子の菊地成孔とは違うってこと。彼はことジャズに関しては、慎重ですから。

渡 なるほどね。

MC てな感じて、何とかまとまりましたのでこの辺でお開きとしましょうか。

渡 ありがとうございました。



(2008.12.25JR橋本駅前居酒屋にて)





(注1) 油井正一氏によると、戦前、アメリカからジャズのSP盤が入ってきた時、それを黒人の音楽とは認識していなかったらしい(後藤雅洋『ジャズ解体新書』JICC出版局1922pp.88~90)。ちなみに、最近、瀬川昌久・大谷能生『日本ジャズの誕生』青土社2008が刊行され、戦前~戦中期のジャズの受容史が明らかとなった。

(注2) ハンコック(1940~)は、7歳からクラシックピアノをならっており、11歳でシカゴ交響楽団と共演した神童である。

(注3) McLeanは、会場で松本治の初リーダー作『和風』を購入。これがなかなかの逸品であった。

第1回 ライブ観戦記 中篇

 紙のジャズ 第1回 渋谷毅オーケストラ観戦記 中篇


              ~2008.12.25@杜のホールはしもと~



                                  Mclean Chance、渡部信順



サックスで素性がわかる





MC ところで、フロントが4人サックスで(津上健太(ss,as)、林栄一(as)、峰厚介(ts)、松風鉱一

(bs,as,fl))、トロンボーン1人(松本治)という変わった編成ですが、誰か好きだというのはありますか?

渡 峰さんのテナーはよかったですよ。

大 そうですか。

MC バリトンはPAの関係もあってか、よく聴こえなかったけども、テナー好きってのもありますが、

私は峰さんがグッときたねえ。

MC うんうんうん。

渡 林さんのアルトもいいと思ったけど。

MC 林さんもまあ、歌謡とフリーだよね(笑)。

渡 なんというんでしょうね。歌いながらどっか行ってしまうというか(笑)。

MC フリージャズの方だから、ああいう展開に行くのは当然でなんですが。今回の場所は、普段はジャズをそんなに聴いていない方が多かったでしょうから(注・明らかに中高年の夫婦が多かった)、それを意識していたの思うので、普段だったらもっとフリーっぽいのも演奏してるのかもしれませんね。ピットインとかだったら、フリージャズ好きな人が明らかに多いですから。

渡 だから、一番が峰さんで二番が林さんかな。

MC なるほどね。私も、聴いていて、このオケのウリは林さんだと思いましたが、2番目が津上さん
と思いました。

渡 ああ、なるほどねえ。

MC 津上さんのサックス、とりわけソプラノはメカニカルで、多分に、デイヴ・リーブマン(1946年生まれのソプラノ、テナーサックス、フルート奏者)の影響が強いのだと思いますが、デートコース・ペンタゴン・ロイヤルガーデン(2008年に解散した大編成ファンクバンド)やONJOのメンバーでしたので(津上氏は脱退している)、サックスを吹くということで、菊地成孔さんと大友良英さんに相当鍛えられたんでしょうね。出す音のパワーが基本的にすごくて抜けがいい。

渡 なるほどな。

MC  昔はそんなに太くないんですよ。7~8年前に、ONJQ(大友良英ニュージャズ・クインテット)
のライブ収録(注・『Live』(DIW)として発売された)で初めて津上さんを見たんですが、こんな音じゃなかったですよ。

渡 ほう。

MC もっと神経質でね。

渡 じゃ、ずいぶん変わってきたんだね。

MC うん、ずいぶん変わりました。ホントに音が太くて、大きくなって、図抜けた音になりましたね。

渡 自分の表現にも自身が持てるようになったんでしょうね。

MC (ONJQで)隣に菊地さんが吹いていて、安心じゃないですか。あのONJQのウリはやっぱり菊地さんなわけですから。ものすごい吹ける人でしょ?

渡 バリバリにね(笑)。

MC 作ってくれているわけだから。自分でそれ作っていくってことになると大変ですよ。

渡 もっと言うとさ、渋谷さんのところにいると、何をどう吹いても許してくれるでしょ。それもあ
るんでしょうね。

MC 渋谷さんは全体のがっちりとした形を、ライブにおいては、多少いびつになっても叱る感じがな
いですね。それでいいようにしてるんでしょうね。

渡 でしょうね。

MC だから、津上さんのハードなスタイルと、古澤さんのどうにでもござれの、ホントに意味でのフ
リー(笑)。

渡 なるほどね(笑)。

MC あらゆる抑圧から解放されちゃった音楽(笑)。

渡 そういう意味でのフリーね(笑)。

MC まあ、ホントにフリージャズですよね。ほとんど相反するとしか言いようのない要素を平然とお
いていて、それに対してコードだけを供給して後は好きにやれっていうのは、ある意味相当懐深い
ですよね。で、やっぱり渋谷さんがソロを取ると場が引き締まるというか。

渡 全体の雰囲気が瀟洒な感じになる。

MC 話がちょっと、戻っちゃいますが、コルトレーン敷き詰めるような音の作り方というのは、結構
みんなに受けたじゃないですか。彼のやり方というのはロジカルだし、ある意味習得しやすいです
よね。だから、みんなコルトレーンぽくなるし、そうするとピアノも敷き詰めていかなくっちゃいけないというか、そっちになっちゃう。渋谷さんはそれがやだったんでしょうね。

渡 やっぱり感じたのはね、少ない構成音センス良く1つの小節の中で生産していく感じがする。

MC 吟味しているんだね。

渡 そうだね。

MC 1小節の中で必要なテンションが入って、それが次の小節の雰囲気になっていくというか。無理に入れてないんですよ。省略のマジックがすごいというかね。 実際のところ、どう抜くってのは、
結構覚悟のいる作業で、抜くとバレるんですよね。バーッと敷き詰めると、すごいものに聴こえる
んですよ。音ってドンドン抜いていくと、その人にどれだけリズム感があるのかとか、明るみにな
る。

渡 特にピアノはね。

MC サックスなんかでも、あんま吹きまくらないスタイルってのは、絶対リズム感が問われていて、どういう音を選んでいるのかもバレちゃう。

渡 そうだね。

MC 情報量がすくなけれが少ないほど、聴く側はそれが何なのかが判別しやすいですから。上手か下手かがすぐわかっちゃう。渋谷さんはその険しい道を進んでいるんでしょうね。本人は非常に淡々としてらっしゃいますが(笑)。

渡 コルトレーンのやろうとしたことは、限られた時間の中で、コードチェンジするコードシンボル
の中にありとあらゆる情報をぶち込んでしまうと。

MC 彼の場合は、言いたいことが多すぎて、長くなっちゃうんだよね。

渡 だんだん、音楽からはみ出しちゃう。

MC 彼は選び取ることも捨てることも出来なくて、「かたずけられない人」というか、頭の中がずっと
そんな感じだったんじゃないのかと(笑)。コードチェンジも、モードチェンジも一緒くたになって、
アフロポリリズムも、インドの変拍子も入ってきて。常に「ゴミ屋敷状態」で(笑)。

渡 そうそう(笑)。

MC だから、結果として、聴いてる人にはノイズだったり、フリージャズになったりするんですよ。
最晩年のラシッド・アリにすら、ちゃんとビート刻ませてますからね。あの状態で(笑)。ということは、彼のやってるフレーズは、ちゃんと聴いてると譜面になるんだと思いますよ。

渡 うん。

MC 私がサックス聴いてつくづく感じちゃったのは、日本語をしゃべってるってことが、アドリブで
ソロを取ってることを拘束するものなのか。ということですね。

渡 ああ、なるほどね! 言われて気づいた。

MC 音のシリの部分が、ニューヨークでやってる人たちのほうがキレが良いんですよ。

渡 僕もジャズピアノ弾くからわかるんだけど、やっぱ日本人だよなあと感じてしまうことあるんで
よねえ。

MC というと?

渡 やっぱり日本人なの、僕って。フレーズの継ぎ方がダメなのよ。1文字1音節区切っちゃうね。

MC スキャットの「ダバダバ」ってのがありますよね?日本人だと、「ダア~バア~」て、全部母音がついて聞こえるというか。

渡 そう。そうだね。日本人にジャズ・ヴォーカルって、すごく難しいんだろうねえ。

MC そう思いますよ。モダンジャズは、とりわけアドリブを重視してきたけれども、アドリブってそ
ういうのがモロに見えちゃうじゃないですか。

渡 なるほど。見えてきたねえ。

MC テーマは練習すれば、キャノンボール(キャノンボール・アダレイ。アルトサックス奏者1928~
1975年。明るくのびのびとした、まるでテナーサックスのようにアルトを吹くことで人気を博した)そっくりになるかもしれないよね。でも、アドリブとなるとそうはいかない。

渡 なるほどねえ。

MC 自分の語法でやるしかないでしょ。

渡 そう。結局そうなのよ。

MC コードとかがあったとしても、最終的にやんなきゃいけないのは、自身のイディオムの問題だからね。

渡 言葉であり呼吸の問題だろうね。

MC テナー吹いてても、日本人が吹くと違うんですよ。技術的にヘタとかうまいとかそういうレベル
問題じゃなくて。津上さんなんかは、母音を消す努力をかなりしてると思いますけども。でも、

他の人たちは、丸出しですよ。

渡 そういや、盲点だったねえ。

MC だから、何が聴こえるかって言うと、歌謡です。

渡 わかるわかる。

MC 彼らの世代は、ラジオなりテレビなりで一番聴いていた、聴こえていたのかというと、そりゃ、
美空ひばりなんかの歌謡曲でしょう。コルトレーン聴きましたって言ったって、幼少期のときに何
聴いていたのかっていうのとは比べモノにならないよ。

渡 でかいだろうねえ。

MC お父さんが村田英雄は良いなあとかいって聴いてるわけでしょ(笑)。それを子供は強制的に聞かされてるわけだから。2歳くらいから。ヘタするとお腹の中で聴いてるわけで。アドリブってそれ

が全部見えちゃうのよね。キース・ジャレットが「ジャズという民族」みたいなことを言って、8

0年代からスタンダード・トリオ始めるじゃないですか。あれって、示唆的だと思う。ある意味、

ジャズってのは、「ジャズ族」の言葉ですよね。

渡 ジャズを学んでいくって言うことは、「ジャズという言語」を学んでいくことなんでしょうね。

MC そうでしょうね。ビ・バップ(注)のやってることは、言語に一番近いって言われてるからね。

渡 そうなんだよね。ジャムセッション行ってみて、日本語にひきづられてるんだよね。そこからいかに脱却するのかが挑戦なんだよねえ。

MC なるどね。でも、言語学からジャズを分析しようとする人けっこういたらしいですけど、ほら、
記号学からそういう人でそうじゃないですか(笑)。

渡 相当いるだろうね(笑)。

MC あんまりうまくいってないみたい(笑)。音楽は全部、記号に置きかえられるわけじゃないからね。

渡 音楽を記号学で語るって言うのは無理なのかな。

MC 音楽は運動だかね。止めて、ハイここ。みたいな事ができない。消えちゃうでしょ。文字だと、
分析できる。学者は動きを止める装置を自分で持ってないと分析できなんですよ。だから、絵画分析は進むんです。フーコーの『言葉ともの』の最初は、ベラスケスの「侍女たち」の精緻な分析じゃないですか。 

渡 たしかにあの分析は素晴らしいよねえ。フーコーは、普段意識できないことを意識させることにかけては天下一品だね。それが構造主義なんだけども(笑)。

MC するとね、ジャズってのはあんまり分析できない。譜面だけじゃどうしようもないでしょう。

渡 音楽的感動なんてのも、完全に言語におきかえ可能じゃないからね。

MC 批評ってのは音楽のおいてもあるけども、結局のところ、聞かないとわかんない。まだ絵画だと、図録の横に批評をつけることでわかるけども。

渡 渋谷さんの音楽聴いて語ってるけども、もうすでに終わってることだからね。時間と空間のずれ
がある。

MC 場所も変えて、居酒屋でしゃべってるわけだから。

渡 これがまた録音されて、活字におこして、エクリチュールになる(笑)。

MC そうなってくると、常に分析しようとするものが常に断片的にならざるを得なくてね。鳴ってる

音の情報を全部把握して分析できてないですから。それはCDを聴いていても、何回聴いたって10

0%聴いてないですから。大編成のものを聴いてたら尚更ですよね。

渡 音楽って、創作過程が全部丸見えですよね。でも、全部が把握できない。現れては消えていくし。

MC そのうえで、フォーカスあてるのは、やっぱりどういうソロ取ってんだろうね。ということにな
るのは、当然ですけども、これは全くごまかしがきかないよね。これがジャズの一番怖いところ。
その人の出自が全部でてしまう。

渡 そう考えるとジャズのフレーズって不思議だね。フレーズってのは、現れては消えていくもので
しょ?その人の味とか個性が出てくるのはそこに出てくるのだけど、それはあっという間に消えて
いくものなんだね。

MC 日本のジャズメンは音大出身者が多いから、見よう見まねでジャズやってる人はほとんどいないです。でも、パーカーにはならないよね。

渡 パーカーの吹き方は、パーカーにしか出来ない。

MC パーカーの遺した録音を全部譜面に起こして、全くその通りに吹いたという、「スーパーサックス」という集団はいたんですが(笑)。要するに、そうでもしないと、パーカーにならないということを
逆に証明しちゃったんですよね。(笑)。



(後編に続く)







(注)チャーリー・パーカー、バド・パウエルらによって1940年代半ばに始められたジャズの新しい演奏形式。コード進行のみをたよりに、徹底したアドリブプレイを競うことを主眼としたもので、当初は一部の熱狂的な演奏者の間でのみ行われたが、やがて、それが50年代に「ハード・バップ」という、より洗練され、音楽的にも整合性のとれたヴァリエーション豊かなものとして定着する。

第1回 紙のジャズ ライブ観戦記 前編 その2

 「渋谷毅(たけし)オーケストラ観戦記 前編 その2  


            ~2008.12.25@杜のホールはしもと~」                

               

              

McLean Chance、渡部信順





ドラムの話(承前)



MC ライブの休憩時間に中村八大の話をしたでしょ?私が今までで一番渋谷さんを堪能できたのは、大友良英さんがプロデュースした、『See You in Your Dreams』という、中村八大作曲集のアルバムがあって、全編にわたってさがゆきさんが主役なのですが、伴奏として一番際立ってるのが渋谷さんなんですよ。非常に控えめで、上品なんですよね。だからドラムはそれにあったもんじゃないと。

渡 まあ、そうなると…

MC 芳垣さんはそれこそ、ROVOだろうと、南博トリオだろうと、ONJO(大友良英ニュージャズオーケストラ)だろうと何でも出来るからね。これに対して、古澤さんはイディオムが豊富とも思えないし、あの叩き方しかできなくなっちゃってるんだろうね。

渡 あんまり多いとはいえませんね。

MC ある種の「部族の言語」を語るって言うんですかね。

渡 笑っちゃうのが、渋谷さんがそれを許しちゃってる。

MC 許してますねえ(笑)。

渡 あれでいいよというか。

MC いいんでしょうね。

渡 それを許しちゃうってことは、ゆとりがあるんでしょうね。

MC 嫌そうな顔もしてないし。

渡 それでいいよみたいな。あと俺やるみたいな。

MC マイルス型のリーダーだったら、おそらく、古澤さんタイプの人は、「自分の美学に合わない」っててことで解雇だろうし、そもそも声もかけないだろうけど。

渡 そうだよね(笑)。

MC 渋谷さんは、そういう方じゃないんでしょうね。解雇しないでずっと使い続けているってことは。バンドの推進力としての役割は放棄してもよいといっているフシすらありますよ。

渡 うん。なんかね。

MC 好きなように、ただ叩いていろというか。自分の言語体系で叩いているだけで、周りの人と合わせようとフシもない。でね、おそらく、このオーケストラってあんまりリハーサルしてないんでしょうね。

渡 してないと思う。

MC それぞれ自分でバンドを持ってるような人たちがメンバーですから。

渡 へたすると、全然やってないとか。

MC それはないと思うけども(笑)、会場で打ち合わせして、ソロ回し決めて、音合わせて、くらいなのかもしれませんね。演奏する曲も、新曲をガンガンやってるようにもみえないし。

渡 前半が自分たちのやりたい曲で、後半が定番でしょうね。後半が真骨頂でしょうね。

MC そうでしょうね。特にエリントンの「シェイクスピア組曲」の抜粋(注・「Star- Crossed Lover」でありる)とニューオリンズ・ジャズの「ジャズ・ミー・ブルース」がよかったね。

渡 そうですね。肩肘張らないゆるやかな演奏なんですけども、だれない。で、やっぱり、エレガンスも追求していというね。

                    

                         (以下、中篇に続く)

第1回 ライブ観戦記 前半 その1

第1回 ライブ観戦記 渋谷オーケストラ 前編 その1


「渋谷毅(たけし)オーケストラ観戦記 前編

            ~2008.12.25@杜のホールはしもと~」



McLean Chance、渡部信順



はじめまして。私たちは、「紙のジャズ」というジャズを研究するグループです。現在5名が参加しております。私たちの目指すところは簡単でありまして、音楽をきちんと聴いて、論じましょう。ということであります。とはいえ、ジャズという音楽、得体の知れない怪物であることこの得なく、ジャズだけを聴いていてもわかりません。ですので、クラシック、現代音楽、黒人音楽、ロック、ノイズ、即興音楽となんでも聴いて論じていくこととなります。今回は、日本を代表するビックバンドである「渋谷毅オーケストラ」のライブを聞いた直後に自由に論じ、その前半をお送りいたします。それでは、どうぞ。

ドラムについての考察



McLean Chance、(以下、MC) 今回は私と渡辺君のデュオでやらさせていただきますが、どうでしたかね、渡部君は初めてですよね?

渡部信順(以下、渡) そうですね。しめる部分と緩める部分の上手な折衷がね。

MC はいはい。

渡 つまり、ピアノって言う楽器は、コードを打てる楽器であると同時に、リズムも打てる楽器でし

ょ?

MC うん。そうだね。

渡 ピアノってのは、全体の雰囲気を作ると同時に、リズムも作れる便利は楽器だけども、渋谷さん

は最低限度の役割しかやってないんですね。それで、上手に締めをあたえると、同時に、緩みを与

えて、思いっきりオケを遊ばせる。そこが楽しい。とても堪能できましたよ

MC うーむ。

渡 多分、アレンジにしても、大枠しか決めていなくて、後は細かく決めてないんでしょうね。

 で、そのなかで遊ばせる。遊ばせたら、こっち(渋谷さんが)が軌道修正する。

そういうね、懐の深さを感じましたけど。特に、一番最後の曲で感じたのが、渋谷さんがオルガ

ン弾いたでしょ?オルガン弾いたときにね、ほとんど弾いてるのが、コードにテンションをのっけ

て鳴らすのと同時に、グリッサンドで遊ぶ。まさに、「締めと緩み」なんだよね。コードで、雰囲気

を作って、グリッサンドかけてちょっと遊ぶ。その繰り返しによって全体像を作っていく。

MC なるほど。やっぱり、ライブだったってこともあるけれども、ビックバンドとって言うのは、見

るとホントに何やってるのかよくわかる。

渡 ホントね。よくわかるね。

MC 私も初めて見たんですが、「渋さ知らズ」とか、他の活動のものは聴いていたのですが、ただ、

リーダーのものは全然知らなくて、どういうことやってんのかなあ、と、思ったんですよ。

渡 ほお。

MC で、たしかに予想通りだったなっちゅうとこともあったんですね。

渡 というと?

MC あんまり自分の型にガチッとはめないで、好きにやらせている。特に、好きやらせているのは、

明らかにドラムですよね。

渡 うん。そうそうそう(笑)。

MC あのドラムは、ある意味好き嫌いがわかれますよ。

渡 それを許しちゃってる。

MC 許しちゃったんだね。

渡 そうそう。あとは、ベースと俺で何とかするからさ。というか。

MC 普通にリズム、キープしてる部分でも、古澤さん(注・古澤良治郎)はですね、大変ベテランの

方なんでけども、正直、おぼつかない所がかなりあったじゃないですか。

渡 (笑)、まあね。

MC 果たして、あのリズムが、ホントにあってるかと言うことで考えると、正直微妙なところがあり

ますよ。ベースだって、ホントにエレキでいいのかどうか疑問があるんだけども、とにかく、あん

まり上手じゃない。上村さん(注・上村勝正)のベースと古澤さんドラムは、ハッキリ上手いとは

いえない。ああいうスタイルは一向に構わないんだけども、それが渋谷さんの音楽とこのドラムが

合ってるのかというと、私は合ってないと思う。

渡 ほう。

MC 日本で言ったら、芳垣安洋であるとかの方が、もうちょっとシャキッとしたでしょうね(笑)。

渡 たしかに、感じるよね。

MC このドラムがいかがなものか、と私はかなり感じましたが、ところがどっこい古澤さんはですね、

宣伝のチラシに書いてある略歴をみると、結成当初(注・1986年)からいるんだよね(笑)。

渡 はっはっはっは。

MC 当初、どういう音楽をやっていたか、私はわかんないんですよ。仙人みたいになっちゃった古澤さんしか知らないので、何ともコメントできないのだけれども、現在の彼のありようっていうのは、渋谷さんのあり方とは違うと思う。明らかに。渋谷さんはやっぱり、極めて上品なジャズを追及なさっていると思うんですよね。

渡 渋谷さんのエリントンには愛情感じるね。

MC 感じますでしょ?ビックバンドやってる人はエリントンってのは絶対にはずせないと思うんで

すよ。彼は、「エッセンシャル・エリントン」というのやってらっしゃって、アルバムもだしてるの

ね(注・2009年5月までに『エッセンシャル・エリントン』『アイランド・ヴァージン』『Songs』を発表)。つまり、このピアノを聴くとジャスのエレガントな部分をね、すごくやりたいと。

渡 そうだね。

MC なんというのか、日本の風土に根ざしたような(笑)、独特のフリージャズみたいなものとは

多分、一線を画している。ところが、古澤さんのドラムというのは、まさにその典型みたいなドラ

ムであって、正直、僕の趣味からすると、合わないな。ということでね。

渡 なるほどね。

MC ライブの休憩時間に中村八大の話をしたでしょ?私が今までで一番渋谷さんを堪能できたのは、大友良英さんがプロデュースした、『See You in Your Dreams』という、中村八大作曲集のアルバムがあって、全編にわたってさがゆきさんが主役なのですが、伴奏として一番際立ってるのが渋谷さんなんですよ。非常に控えめで、上品なんですよね。だからドラムはそれにあったもんじゃないと。

渡 まあ、そうなると…

MC 芳垣さんはそれこそ、ROVOだろうと、南博トリオだろうと、ONJO(大友良英ニュージャズオーケ

ストラ)だろうと何でも出来るからね。これに対して、古澤さんはイディオムが豊富とも思えない

し、あの叩き方しかできないんだと思う。

渡 あんまり多いとはいえませんね。

MC ある種の「部族の言語」を語るって言うんですかね。

渡 笑っちゃうのが、渋谷さんがそれを許しちゃってる。

MC 許してますねえ(笑)。

渡 あれでいいよというか。

MC いいんでしょうね。

渡 それを許しちゃうってことは、ゆとりがあるんでしょうね。

MC 嫌そうな顔もしてないし。

渡 それでいいよみたいな。あと俺やるみたいな。

MC マイルス型のリーダーだったら、おそらく、古澤さんタイプの人は、「自分の美学に合わない」   

ってことで解雇だろうし、そもそも声もかけないだろうし。

渡 そうだよね(笑)。

MC 渋谷さんは、そういう方じゃないんでしょうね。解雇しないでずっと使い続けているってことは。

 バンドの推進力としての役割は放棄してもよいといっているフシすらありますよ。

渡 うん。なんかね。

MC 好きなように、ただ叩いていろというか。自分の言語体系で叩いているだけで、周りの人と合わ

せようとフシもない。でね、おそらく、このオーケストラってあんまりリハーサルしてないんでし

ょうね。

渡 してないと思う。

MC それぞれ自分でバンドを持ってるような人たちがメンバーですから。

渡 へたすると、全然やってないとか。

MC それはないと思うけども(笑)、会場で打ち合わせして、ソロ回し決めて、音合わせて、くらい

なのかもしれませんね。演奏する曲も、新曲をガンガンやってるようにもみえないし。

渡 前半が自分たちのやりたい曲で、後半が定番でしょうね。後半が真骨頂でしょうね。

MC そうでしょうね。特にエリントンの「シェイクスピア組曲」の抜粋とニューオリンズ・ジャズの

「ジャズ・ミー・ブルース」がよかったね。

渡 そうですね。肩肘張らないゆるやかな演奏なんですけども、くずれない。で、やっぱり、エレガ

ンスも追求しているんでしょうね。

                                              (前編 その2に続く)

2010年8月16日月曜日

第8回クロスレビュー John Zorn "News For Lulu"(Hat Hut) & 梅津和時”梅津和時、演歌を吹く。”(doubtmusic)

McLean Chanceの場合




80年代当時、ジョン・ゾーンが、ギター、トロンボーンのトリオで、ハードバップをやる。ということがどのように受け止められたのかは、寡聞にしてよく知らないが(まあ、当時のゾーンのファンは、何をやっても喜んでいたと思いますが)、今聴いても、本当にヘンテコなアルバムだなあ、これ(笑)。

こういうのを作ろうとするゾーンの気持ちはわかりすぎるほどわかりますよ。

演奏している曲の作曲者をあげてみると、ハンク・モブレー、ソニー・クラーク、フレディ・レッド、ケニー・ドーハム。これって、ハードバップファンが大好きな人たちばかりですよ。

要するに、ゾーンは熱狂的なバップ愛好家なのですね。

普段は、ブキョー!!と、景気よくノイジーなアルトで聴き手を痙攣的な快感に叩き込むゾーンが原曲をほとんど壊すことなく演奏し、かつ、ほとんどの演奏が3~5分のコンパクトなものにまとめられているのも、パンクスとしてのゾーンよりもジャズマニアとしてのゾーンの姿勢が勝っているといってよいだろう。

しかし、バップを80年代にそのまんまやったりはしないのが、ゾーンなんだね。

ジャズにはつきもの、ドラムをあえてはずして、更に言えば、バップのような、テーマ~メンバーによるソロまわし~テーマから、ソロは、ほぼゾーンのみにして(インタープレイ気味の展開もあるが)、通常のハードバップの演奏の半分ほどに縮めている。

まあ、この辺は、ゾーンでなくてもやりそうなんですけども、問題はその出てくる音。

まあ、バップどころか、ジャズのもつテイストが脱色してしまったように感じられないのだ。

なんというか、蒸留水を飲んでいるような感じというのか。

更に、ハードバップは、ビ・バップよりも洗練されてきてるものの、やはり、盛り上がる音楽なわけだが、恐ろしいほどに盛り上がらない。

これは、最後についているライブ録音の3曲も全く同じで、同じ素材を扱いながらも、あまりに異質な音楽に成り果てているのだ。

でも、おそらくとてつもなく好きであろうバップの名曲をこんな風に鼻でくくったみたいに演奏するゾーンたちはどういう風かねえ。というのは、さておき、一方の梅津の演奏は、のっけからすごいテンション(笑)。

聴いてるこちらが恥ずかしくなってくるまでに、ストレートにブロウしまくる。歌いまくる。テーマをやってアドリブなんてこともナシ。原曲をひたすらアルト、ソプラノ、クラ、バスクラで思いのままに吹くまくる。「ジャズ」なんかやろうとしないのである。

そして、その聴き始めの気恥ずかしさは、梅津の熱演によってどこかにいってしまい、その熱いブロウに聞き惚れてしまうのである。

しかし、よく考えてみると、梅津はゾーンとそれほど年齢は変わらないはずだ。そして、ゾーンとともに、80年代をともに生き抜いて今日至ったのである。

何の考えもなく、演歌をただブロウしたのではないのだと思う。

単純なことだが、梅津の演奏は、無伴奏ソロ。ホーン奏者としてはあまり行わない編成である。

しかし、私はここで、ピアノ、ベース、ドラムをこの梅津の演奏につけてみたらどうなのか。と、ちょっと想像してみたのだが、これはたまらないほどつまらない演奏が頭の中で鳴った(笑)。

これは、プロデューサーのはっそうなのか、梅津自身の発想なのかは、知らないけども、リズムセクションを一切つけないことと、ヘタにアドリブさせない。というのは、当初から考えられていたのだと思いますね。

演歌、というよりも、東アジアの伝統的な音楽は、どちらかというと、律動よりは、歌い回しが重要な要素なわけだから、ヘタにジャズのリズムをつけたら、演奏が窮屈になってしまう。というか、ダサい。

そんなことは、知性派の梅津がするはずもない。

だから、形式としてのジャズなどはなから放棄して、演歌のもつエモーションやパワーに忠実であることで、このアルバムを秀逸なものにしたのではなかろうか。

ジャズメンとしては、その演奏にこめる熱気や気合、根性にこそ、ジャズがある。という矜持をもって演奏したのではないかと推察され、ゆえにジャズアルバムではないにもかかわらず、このアルバムをレビューに取り上げた次第なのである。

さて、そろそろ、まとめに入らねばならなくなったが、問題として先送りしてしまった、ゾーンの演奏態度であるが、これは、こういうことだろう。

ゾーン以下の3名はいずれもその楽器の名手であり、やろうと思えば、ハードバップをそのまま演奏することなど、わけはない。が、そこには、モブレーのテナーの持つ黒さや、ドーハムのちょっと詰まったような抜けの悪い音、ソニー・クラークのもつれ気味の指から繰り出される暗さやはかなさは、果たして再現できえるだろうか?

おそらくは、ゾーンは、ハードバッパーのもつクセやアクのようなものを獲得することを、ミュージシャンとして生きていくうえではじめから断念しているところがある。

そういうものとの決別が、彼の即物的で超絶的なテクニックを持ちながら、どこかパンキッシュなゾーン独特のアルトサックスのプレイが完成して言ったのだろうけども、それは、このハードバップ集を演奏しているときも一緒であり、というか、彼が何よりも好きなジャズを演奏しているがゆえに、そこが殊更際立ってくるのではなかろうか?

再現不可能なものへの愛。そういう、アンビバレントが、ゾーンの創作の根源にあるのだろう。

梅津は、80年代に「明るい前衛」を確立し、前世代のフリージャズの持つ、シリアスさを軽々と乗り越えてみせるフットワークの良さを、聴き手に鮮やかに提示してきたが、本作では、むしろ、ジャズという、梅津にとってもっとも重要なフォーマットすら捨て去り、演歌という、梅津の世代には、「ダサいもの」として捨て去ろうとしたものに向き合い、真っ直ぐに熱演する。

あたかも、ルーツバックから、ジャズメンとしての何かを確認しているかのようである。

両アルバムの間には20年ほどの時間の経過があるのだが、何を獲得しようとし、何が喪失したのかが、この2作を見るとよく見えてくるように思うのだが、どうだろう。
 

第7回 クロスレビュー  Hank Mobley Quintet(Blue Note) & Roll Call(Blue Note)

Hank Mobley : Hank Mobley Quintet(Blue Note)

Hank Mobley(ts), Art Farmer(tp), Horace Silver(p), Doug Watkins(b),

Art Blakey(drms)

Recorded at the Rudy Van Gelder Studio in EnglewoodCliffs, New Jersey

on May 8, 1957



Hank Mobley : Roll Call(Blue Note)

Hank Mobley(ts), Freddie Hubbard(tp), Wynton Kelly(p), Paul Chambers(b),

Art Blakey(drms)

Recorded at the Rudy Van Gelder Studio in EnglewoodCliffs, New Jersey

on November 13, 1960





McLean Chanceの場合



こりゃ、フレディ・ハバートを聴くアルバムだよねえ。あ、『ロール・コール』のことですがね、さて、タイトル曲「ロール・コール」を聴いてみますと、ブレイキーお得意の嵐のようなドラミングから曲が快調に始まりまして、さあ、我らがモブレーが以外にもハードにソロをとるものですから、結構、この人やれるんだなあと。ちょっともつれ気味だけども。

しかし、2番手にフレディが始まるともういけません。いや、フレディがいけないんじゃなくて、モブレーがいけないわけです。なぜ?そりゃ、フレディーのが、輝かしいソロをとっちゃって、サイドも一緒くたに燃えまくってるんですもの。

じゃあ、2曲目「マイ・グルーヴ・ユア・ムーヴ」はどうかというと、これもね、フレディのがずっといいわけですね。要するに、A面はフレディなんですね、これ。

モブレーって人は、どこか人が良いのか、自分よりもサイドメンが目立っちゃうアルバムを平気で作っちゃう人なのですが、これなんてその典型ですね。

 なものですから、ジャズ史にその名を今ひとつ残せていないのですが、しかし、モブレー、初代メッセンジャーズですので、実力者なのですよ。

で、それが味わえるのが、『ハンク・モブレー・クインテット』なわけです。これは、トランペットがアート・ファーマーだからいいんですよ。

ファーマーは、フレディみたいにバリバリ吹かないで、知的な抑制が効いた端正なスタイルなので、モブレーの控えめなスタイルにピッタリですね。

「ファンク・イン・ディープ・ブリーズ」のくつろぎと黒さといったら見事という他ないですねえ。モブレーの名演の1つといっていいでしょう。で、これはモブレーが素晴らしいのはもちろんのこと、ファーマーとの相性が素晴らしいのです。

もう1つ特出すべきは、ベースのダグ・ワトキンスですね。『ロール・コール』のポール・チェンバースだって名手ですよ。あの、マイルス・クインテットの屋台骨だったのですから。しかし、ワトキンスの巨木の根っこのように太くて温かみのあるベースって、ちょっとバップに限定すると、見当たらないですよ。ワトキンスって、淡々とリズムを刻んでるだけなのですが、それだけで存在感があって、演奏をしっかり支えてるんですよ。

ソニー・ロリンズの名盤『サキソフォン・コロッサス』も、ベースがワトキンスであることをお考えいただければ、ワトキンスがハードバップ最強じゃないのか。というのは、あながち大げさな意見じゃないと思いますけども。

 それはともかくとして、『ロール・コール』は、フレディを楽しむアルバムであり、『ハンク・モブレー・クインテット』こそが、モブレーの魅力を伝えてるってことが、言葉のうえじゃなく、聞き比べた実感からわかるようになれば、貴方の「ジャズ耳」は、それだけ成長したってことになると思います。

あと、蛇足ですが、モブレーって、ほとんどメッセンジャースとホレスのコンボの人ばかり起用してますね。というか、ホレスとブレイキーという、お互いに一家をかまえている個性の強いミュージシャンが共演するにおいて、モブレーの控えめさは、ちょうど緩衝材の役割だったのかもしれませんね。

これはあまり指摘されてませんけども、モブレーって、リーダー作は自作曲がとても多いですよね。『クインテット』は全曲自作ですし、『ロール・コール』も、6曲中5曲が自作です。とすると、モブレーは、メッセンジャース人脈を駆使して、自分の曲をうまく演奏してくれるアルバムを作りたかったのかもしれませんね。自分は、音楽監督として存在すると。 そう考えると、『ロール・コール』も彼の意図通りの作品なのかもしれません。

いずれにせよ、どちらもハードバップの名品であります。







マサ近藤の場合



聴覚のパースペクティヴ~スノッブの会話より~





「タイトルに『パースペクティヴ』だなんて、君らしくないじゃないか。こういったカタ

カナ言葉は嫌いだろう?」





「『パースペクティヴ』。意味は『遠近法』だけれども、『聴覚の遠近法』じゃあ、いささか大袈裟にすぎやしないかい?確かに僕はカタカナ言葉は好きじゃないけれど、それは軽さや衒学趣味が鼻につくからさ。ここでは敢えてその軽さを逆手に取ろうというわけだね」





「なるほど。でも、今回のアルバムと関係あるタイトルなのかい?『聴覚』を扱うのならば、何もこのセレクトじゃなくたっていいだろう?」





「そうだね。実を言うと、このタイトルにこのセレクトでなくてもよいわけさ。でも考えてもみたまえよ。ドストエフスキーの小説『白痴』と『悪霊』の表紙を交換して読み続けていたとしたら平均的な『白痴』、『悪霊』像とは全く異なって解釈するだろうよ」





「そういった言葉は敵を作るのが大好きな君らしいけれど、でもそれは二つの『悪霊』なり『白痴』を読み比べなければわからないよね。それとも、そうやって引っ掻き回すこ

とそのものを楽しみたいのかな?」





「いやいや、引っ掻き回すだけじゃあ芸がないよ。そもそも、僕は引っ掻き回そうなんて微塵も思っていないんだから。僕は頭が良さそうに見せるのが大好きな鼻持ちならない連中がよく口にする、「違った角度から見る」っていうことがどれだけ突飛なことかをちょっとばかりからかってやっただけさ」





「なるほどね。ところで、今回のセレクトはハンク・モブレーの『ロール・コール』と『ハンク・モブレー・クインテット』だけれど、聴いてみてどうだい?正直な所、

僕にはBGMにしか聴こえなかったのだけれども」





「ふむ。おそらく、BGMというのはどこか馬鹿にしたような意味合いが含まれるね。まぁ、君はそういう意味で言ったんじゃあないと思うけれど。僕が思うに、音楽芸術はその作品自身が持つエネルギーを一気に使い果たしてしまうところに重心が置かれていると思うんだな。こう言っちゃあなんだけれど、演奏されたその場所以外では総て“残りもの”と言っていいかもしれない」





「それは随分と大袈裟な話だね。しかしながら、現代ではその“残りもの”で成り立っている代物がほとんどだよね」





「そのとおり。そして僕らは「残りもの」の重箱の隅をこれでもかと突いているわけさ」





「それはちょっとシニカルにすぎるってものだよ。社会、文化活動が絶対精神に辿り着くことはないとしても、それが僕らにとって有意義であるかそうでないかを判断したり、気楽に楽しんだっていいわけだから」





「僕はシニカルだし、気楽に楽しんでもいるよ」



           *  *  *  *  *



「さっき、このタイトルはアルバムのセレクトとは関係ないと言ったけれども、やっぱり少し関係あるかな?」





「というと?」





「つまり、『聴く』という行為には必ず近さ/遠さがあると思うんだな。集中して聴いているからといって、その曲のコード進行や形式、アドリブ・ソロの展開などを本当にキチンと聴いているかというとそういうわけではなくて、むしろアヤフヤに聴いているときにこそ全体を認識していたりすると思うんだ。たとえば、僕らは普段散歩したりするときに何気なく景色を見ているけれど、そのとき特にどこかに焦点をあてて見ているということはあんまりないと思う。焦点をあてるとき、対象の物体、人物以外のまわりの景色は『ないもの』になるよね。間違った画家はその『ないもの』を切り落として描いてしまうし、間違った音楽家は『ないもの』を切り落として表現してしまう。まぁ、要するにリラックスなんだけれども、そのリラックスと集中のバランスをとることに成功する人間はほとんどいないというわけさ」





「なるほど。随分横道に逸れたけれど、一応それらしく片がついたね」





「 話としては横道にそれっぱなしかもしれないけれども、そういったことをセレクトされた二枚から考察していくというスタンスもまぁ、たまには良かったんじゃあないかな?そういった意味でもいいテクストだと思うね」









渡部信順の場合




いやはや、黄昏だねえ。

なんていうのか、モブレーのテナーを聴いていると、論評するのが野暮になってしまいますよね。

どちらもドラムスはアート・ブレイキーなんだけど、この調子のよい鍛冶屋みたいなドラミングに乗っかって、「たそがれた歌」を歌うモブレーのテナーがまあなんと心地よいことか。



これ、わかる人にしかわかんないかも。





でも、それじゃ身も蓋もないわけで、聴きながら、「モブレーのわからなさ」ということとはなのかと愚考してみますが、音が「プ~」じゃなくて「ブップゥゥゥウ~」って書いて、何がわかりますか?長嶋茂雄じゃないんだから。もうちょっと、この辺の感覚を翻訳してみると、一つの音の中に微妙な揺れがあって、その揺れが彼の言い回しなのだと思います。で、もっと言ってしまうと、ハードバップってそういう「言い回しの美」なんじゃないのかなと。





それがハードバップの全てなのだ。なんて言わないけど、重要な核心部分として、一つの音の中にいろんな感情とか言葉とかが揺れ動いていて、その音を出す/出さないのタイミングに命があるような気がするんですね。それを「ノリ」とか「タメ」とか言うのかしら。



う~ん、わかっていただけるだろうか。この感じ。





ぶっちゃけてしまえば、ハンク・モブレーの音楽は、この1950年代~60年代初頭の「ハードバップ」という枠組の中で初めて活かされるものです。どこか突き抜けた向けたものがないのは、そのせいです。





確かにマイルス・コンボ在籍時のモブレーを聴いていると、やはりマイルスのやりたいことと齟齬を感じますよね。





そうなると、60年代以降は、どこか中途半端な立ち居地でモブレーは勝負せざるを得なかったのかもしれませんね。





まあ、そんな歴史的解釈は今はおいておいて、この『クインテット』と『ロール・コール』を聴いてごらんなさい。





音数の多くないモブレーのフレーズには、絶妙の音の揺れやタメがあって、これが見事にハードバップというフォーマットの中で息づいていることを確認します。

第6回 クロスレビューKip Hanrahan”A Thousand Nights and A Night (Shadow Night 1&2)”(American Clave)

Disc 1
1.Shahrazade and the Opening of the First Shadow Night(Kip Hanrahan/Micheal Cain)

2.Blue Shalima’s Tale, Opening

3. Blue Shalima’s Tale,Continuing(Kip Hanrahan/Micheal Cain)

4.Shahrazade’s First Shadow Night Lover

5.The Blonde Woman Escape.

6.The Hasheater At The Gates of Summmer City(Kip Hanrahan/David WeisBerg)

7.The Hasheater in Judgement

/ and the Revival Thousand Pound Elephasnt(Kip Hanrahan/David WeisBerg)

8.A Woman’s Trick

9. Ghanim ibnAyyub’s Tale and Kut al-Kulub(Kip Hanrahan / Steve Swallow)

10.The Jewish Doctor’s Tale The Continue

11.Haharazade Adrift

12.The Sleeper Awakened

13.Zummarud’s Tale Cotinues with The Thieves

14.The Blown Eyed Woman Escapes

15.The Red Headed Woman Remains with the Merchant

16.Shahrazade and the Closing of the First Shadow Night

(Kip Hanrahan/Brandon Ross/Micheal Cain/Henry Threadgill)



Personel :

Carmen Lundy(Blue Shalimah,Zummarud), Jeniffer Resnick(Shahrazade),

Charles Neville(Ghanim ibn Ayyub, ts), Micheal Cain(p), Don Pullen(p),Steve Swallow(b),

Andy Gonzalez(b), Robby Ameen(trap drums, hand claps),

El Negro Horatio Hernandez(trap drums), JT Lewis(trap drums), Milton Caldona(chekere),

Paoli Mejias(chekere,congas), Anthony Carrillo(chekere), Richie Flores(congas),

Puntilla Orland Rios(congas, hand claps), Abraham Rodriguez(congas, hand claps),

Eric Valez(congas), Kip Hanrahan(pers, hand claps), Alfredo Triff(vln), Brandon Ross(g),

Henry Theadgill(as)





Disc 2

1.Shahrazade Watches Birds Through an Alabaster Cealing

2.The Jinniya Sleeeps on the Alabaster Cealing, the Coolness of the stone…

3.Birds Through the Alabaster Ceaing

4.”The Illusion of Commerce”, Part One of Shadow Nights-2

5.”Jinn of Class”,Part 1 ofShadow Nights-2

6.”The Lies of The Possibility of Fairness in Contracts in Capitalism”,

The First Part Part of Shadow Nights-2

7.”Fear”, Opening

8.Commerce

9.The Tales of the Youth Behind Whom Indian and Chinese Music was Played, and The Tales of the Jaundiced Youth

10.Accurracy of Location in Shahrazade’s Shadow Night

(Kip Hanrahan/Richie Florez/Anthony Carrillo/Robby Ameen )

11.”Faith and Resolve”, Parts One and Three of Shadow Nights-2

12.The Man Who Stole The Golden Plate From Which The Dog Had Eaten

13.Ishaak of Mosul, His Mistress and The Devil

14.Shahrazade and the Forming of the Next Day





Personel :

Erica Larsen(Shahrazade), Don Pullen(p,org), DD Jackson(p), Fernando saunders(b),

Robby Ameen(trap drums, hand claps), El Negro Horatio Hernandez(trap drums), JT Lewis(trap drums), Paoli Mejias(quinto), Richie Flores(quinto), Anthony Carrillo(congas), Alfredo Triff(vln),





Recorded in between July 1994 and March 1998

at SterlingSound Studios and RPM Studios, New York

All songs written and prodused by Kip Hanrahan









McLean Chanceの場合



キップは随分損をしていると思う。そのテクストの莫大さ。インテリを喜ばせる言説に満ちたパッケージ。それはよきにつけ悪しきにつけ。ではあるけども、キップの場合は、マイナスに働いてる気がしてならない。いわく、ゴダールの助監督をしていただの、テオ・マセロとの関係云々云々。

私もそういう話は好きなほうだし、どちらかというと止まらない性質の方だが、そんなことは、この圧倒的な音楽の前では二の次、三の次なのではないか。

キップが作曲・製作したアルバムは、一貫してラテン/アフリカ、ジャズへの強烈なこだわりが感じられるが、本作もまたそれは濃厚で、ドラム・パーカッション奏者として、キップを含めて11名が参加し(全員が一緒に演奏する曲はない)、異様なまでの興奮と狂想を聴き手にもたらす覚醒効果が満点であるが、これにドン・プーレンのピアノやオルガンの、こねくりますような激情ピアノが絡むと、叫び声を出さざるを得ない。

キップは自らほとんどプレイしないが、どこをどう切っても彼の音楽である。彼は相当なインテリであろうけども、なにかいつも落ち着きがないというか、他人からうかがい知れないような焦燥感みたいなものに駆られて走り回るように音楽をつくっているような人だ。

かと思えば、ふっとチャールズ・ネヴィル(そう、あのネヴィル・ブラザーズのですぞ!)が、情けないヴォーカルとウットリするようなテナーをプレイを交互に流したり、常人では考えつかないような人選で、全く独自の音楽を提示するキップを、私は、完全に信頼しきっている。

私がとりわけ感動するのは、2枚目の1から9曲目の、一見、録音の断片を乱雑に貼り付けたような一連の曲の連なりだ。キップをジャズの人と限定するのは無理があるが、これはまごうことなきジャズの興奮そのもの。大音量で聴いて御覧なさい。そのカタルシスたるや。

だだ、危険もある。こういうやり方は、ともすれば、単なる知的な操作でしかなくなり、たんなるシラケに陥りかねないのだが、キップの場合は、音楽への桁外れな愛や情熱が、そうならないギリギリのところに踏みとどまらせているのだと思う。

結論を言えば、キップ・ハンラハンは目で聴くのではなく、耳で聴かねばならない。心して聴かないとすっ飛ばされますぞ。



マサ近藤の場合



 ~この人をみよ~ 





 それを意味する言葉は、我々の中で同一のイメージは共有されず、水に投げられた小石がつくる波の輪のようにだんだんと精彩を欠き、いずれは無意味になってしまう。仕方がないことだが・・・





 唯一絶対たるアッラー、尊敬するに値する/したスルタン、美しい生娘、魔人や魔法、こういったものが行間に詰め込まれているものが偉大なる古典、『千一夜物語』であるとして、キップ・ハンラハンのそれはどうだろうか? 夢のような色彩は我々の科学、我々の希望によってひどく歪められたものになってしまったのだと溜息をつきたくなるかも知れない。だが、そこは履き違えてはならない。キップ・ハンラハンという芸術家は、我々にノスタルジアという避難口を用意してはいない。彼は我々を‘現在’に(もちろん、少しではあるが未来のためにも)繋ぎとめようとしているのだ。





 おそらく、彼は純粋に自分の身の丈に合ったものを創造しようとしているだけだろう。だが、我々は身の丈に合った服装は選ぶのに、身の丈の表現を行うことから逃避してばかりだ。





おわかりだろうか?キリスト対ディオニソス…





渡部信順の場合



キップ・ハンラハンはやはりジャズだと思う。

ただしキップの音楽的な方法がジャズだと言い切ると、抵抗のある人が多いと思うが、出てくる音楽の興奮はジャズのものなのね。

この“A Thousand Nights and A Night(Shadow Night 1&2)”という2枚組の大作は、初めから異様な緊張感に支配されており、聴いているうちにだんだん尻の穴がむずがゆくなってくる。これこそジャズの興奮。

恐らく自分の好きな音楽をどんどん追い求めた結果、こういう音楽に辿りついたのだろうと思うのだが、パーカッションの雨あられによって興奮が昂められても、不思議にキップの音楽には不思議と冷静さが同居している。こういうところに都会的なセンスを感じるのだけど、本人はそんなことにお構いなく豪奢なリズムやいろいろな音楽を乱暴にして繊細に散りばめていく。

いわばキップのこの音楽は、料理のフルコースに近いのだ。

最初に前菜が出て、スープが出るが、そこからもう工夫満点。

最後のメインディッシュまで、どうやって客を引っ張ってやろうかという遊び心が至るところに涌き出ているのだから。

この人、当代随一のシェフなのだと思うのだけど、いかに工夫や努力がバレないように遊んでやろうかと、手を変え品を変え、あらゆる手練手管を駆使して、聴き手を催眠術にかけるかのように、快楽の奈落へ引きずりこんでいく。

アートが本然的に持つ「闇」というのは、けっこう危険なもので、不用意に入るとなかなか上がってこられない。ジャズには少なからずそういう要素が濃厚あって、今のジャズシーンに不足しているものこそ、そういう「闇」だと思う。

そういう意味でマイルス・デイヴィスという人は危険な存在だ。試しに『ゲット・アップ・ウィズ・イット』を聴いてごらんなさい。『マイルス・アット・フィルモア』にズッポリとハマってごらんなさい。恐らくは死ぬまでジャズとつきあうハメになるでしょう(笑)。そういうところがマイルスだし、またマイルスの持つ音楽の危険さだと思う。

それと同じことがキップ・ハンラハンの本作にも。一度ハマったら抜けられない。2枚組あっても長さは感じず、最後まで持っていかれる。わからなかった人も虚心坦懐に何度でも聴いてみるとよい。すると今まで聴いていた音楽は何だったのかと思うに相違ない。今が夏なのか冬なのかもわからなくなり、時間の経つのも忘れることだろう。そういう毒のある音楽、甘美で危険な闇を持つ音楽、それこそがキップ・ハンラハンだ。

第5回 クロスレビュー Freddie Green “Mr. Rhythm ” (RCA)  Count Basie / Dizzy Gillespie  “The gifted Ones”(Pablo)

Freddie Green “Mr. Rhythm ” (RCA)

1.Up in the Blues(Freddie Green)

2.Down for Double(Freddie Green)

3.Back and Forth(Freddie Green)

4.Free and Easy(Freddie Green)

5.Learnin’ The Blues(Dolores Vicki Silvers)

6.Feed Bag(Freddie Green)

7. Somethin’s Gotta Give(Johnny Mercer)

8.Easy Does It(Sy Oliver, Oliver James Young)

9.Little Red(Freddie Green)

10.Swinging Back(Freddie Green)

11.A Date with Ray(Freddie Green)

12.When You Wish upon A Star(Ned Washington, Leigh Harline)



Personnel: Freddie Green(g), Al Cohn(ts,cl,bcl), Joe Newman(tp), Henry Coker (tb), Nat Pierce(p), Milt Honton(b), Osie Johnson(drms on 1,3,6,7,9,11) Jo Jones (drms on 2.4.5.8.10.12)

Recorded in December 18, 1955, Webster Hall, New York



Count Basie / Dizzy Gillespie  “The gifted Ones”(Pablo)

1.Back to The land(Count Basie, Dizzy Gillespie)

2.Constantinople(Dizzy Gillespie)

3.You Got It(Count Basie, Dizzy Gillesipie)

4.St. James Infirmary(Tradditional)

5.Follow The Leader(Count Basie, Dizzy Gillespie )

6.Ow !(Dizzy Gillespie)



Personnel: Count Basie(p), Dizzy Gillespie(tp), Ray Brown(b), Mickey Roker (drms)

Recorded in February 3,1977, Las Legas Recording Studio, Las Vegas







McLean Chanceの場合



 2つのアルバムの間には22年間の時間経過があるわけですが、その間に起こったジャズの栄枯盛衰たるやすさまじいものがあったことはさておき、ところで、この2作、ちょうど正反対にできている。グリーンのアルバムは、リズムセクションがスイングなのだが、ホーンセクションがモダン。かたや、ベイシー、ギレスピーの方は、ベースとドラムが70年代しまくってるのに、ベイシーとディジーはなんにも変化なし。面白いことに、双方にベイシー・オーケストラの重要メンバー(ベイシー、グリーン、ジョー・ジョーンズ)が参加していて、普段どおりのことをしてる。

 不思議なことに、フレディのアルバムのほうがモダンな印象を受け、ディジーのラッパは、しみじみとブルースを吹いている。しかもかなり濃厚で、普段のお祭り騒ぎは皆無だ。

ベイシーとフレディ、ジョーンズはまったくいつものとおりの仕事をしているだけなのだが、それがこの人たちのすごさであり、唯一無比の個性であることを改めて痛感させられる。特に大きいソロもとらないというのに。

 フレディ盤がモダンに感じるのは、アレンジのせいが大きいだろう。アル・コーンとアーニー・ウィルキンスが担当した曲がそうで、とりわけ7曲目が傑作と言ってよいだろう。

 かたや、ベイシー&ディジー組は、とりたてて凝ったことは何一つしてはいない。まあ、ノーマン・グランツが自分好みのミュージシャンを適当に組み合わせてやってるだけなのだろう。だから、フロントのどす黒さとリズムの70年代のベース特有のビヨーンとした奏法が何だかチグハグで笑えるが、目くじら立てて怒るほどのことではない。むしろかわいいなあ。くらいの度量が聞き手にも必要だろう。グランツのやることは一事が万事これなのだ。

 こうして考えてみると、この2枚、歴史的にはなんら重要だともいえないし、驚天動地の大傑作でもないのだが、プロデューサーいかんでアルバムの完成度というのはかなりの部分決まってしまうのだ。ということがよくわかってくる。

 フレディは、そもそ強力なリーダーシップでバンドをまとめるのでなく、あの絶妙なリズムギターでバンドを纏め上げることに生涯を捧げきった人なわけだから、プロデューサーとしては、普段どおりやらせるのが、ベストな選択で、人選やアレンジなのは一切考えさせないという作り方だ(フレディが何らかの意見を言っているとは思うが)。曲順も奇数曲をモダン、偶数曲をスイングにしており、ドラマーも換え、キレキレのモダンをアル・コーンにアレンジさせてるのも正解だろう。ただ、優秀なミュージシャンを集めればよい。という安直な作りではない。また、ジャズ・アルバムの製作に大手レーベルが予算を出してくれた時代ゆえの経済的余裕というか、大人感もただよっている。

 それに対してグランツのそれは、とりたてて決まりはないように思う。ヴァーヴ時代からの手法で、この人とこの人を組み合わせたら面白かろうくらいが、彼のアイディアと想像する。このやり方は、50年代の、とんでもない連中がゴロゴロしている時代には傑作連発もできたであろうが、ファンクやロックをやったほうが圧倒的に実入りがよかったであろう70年代の後半に、そんな安易な発想で傑作などできるわけもなく、双頭リーダーがかもし出す、時代に逆行する異様なまでのパワーは、スムースが身上のフュージョン全盛の時代には突出して映っただろうし、そんな時代を「いやな時代だなあ」と、座頭の市よろしく嘆いていたアンチ・フュージョン派には、渇きを癒す作品(事実、ディジーもベイシーもホンモノの迫力を備えている)だったのではなかろうか。とりわけ、ミュートで切々と歌い上げる「セント・ジェームス病院」は、みごとという他ない。 

 1977年といえば、ちょうど、マイルスが引退していた時期にあたるが、そのことと、このディジーには珍しいミュートプレイにとの関連性といいうと、何がしかの想像をかきたてるざるをえないけれども、それ以上は文学であるからして、ここで止めておこう。

第4回 クロスレビュー Lee Morgan "Lee-Way"(Blue Note)

1.These Are Soulful Days(Calvin Massey)

2.The Lion and The Wolff(Lee Morgan)

3.Midtown Blues(Jackie McLean )

4.Nakatini Suite(Calvin Massey)



Personnel: Lee Morgan(tp), Jackie McLean(as), Bobby Timmons(p), Jimmy Paul Cambers(b),
                Art Blakey(drms)







McLean Chanceの場合



これ、1960年の録音ですが、メンバーを見ると、モーガン、マクリーン、ティモンズ、チェンバース、そして、ブレイキーって、これ、チェンバースを除いて、メッセンジャースの現/元メンバーじゃないですか(聴かなくても音が聴こえてきそうです)。そう。これ、「隠れメッセンジャース」でして、しかも、当時はモーガン、ショーターのフロントで、しだいにショーター色になっていきましたから、これは『モーニン』ファンのためのアルバムですね。ですから、実質的なリーダーはブレイキーであり、現場もブレイキーとライオンが仕切っていたのだと思います。



こういう風に書くと、売れ線狙いの、今聴くとどうなんだろ。という類いのものを想像されてしまうかもしれませんが、さにあらず。これ、知名度は『キャンディ』や『リー・モーガンvol.3』より圧倒的に落ちますが、ハードバップの名盤ですよ。



まずこのアルバム、構成がとても良くできてますね。4曲ってことは、LPで片面2曲づつ。まあ、これはブルーノートは曲数を偶数にするのが好きですから、特にこのアルバムの特徴ではないですが、A面がカルヴィン・マッセイ「These are Soulful Days」、モーガン自作の「The Lion and The Wolff」で、B面がマクリーンの「Midnight Blues」と、マッセイ「Nakatini Suite」となっています。つまり、マッセイとオリジナルでできてるんですね。この辺はライオンとブレイキーのアイディアですね。曲名も「ソウルフル」とか「ブルース」とか、狙いまくりですな。モーガンの曲名はちょっとしたお遊びでしょう。



更に、A面をマクリーン、B面をモーガンのフィーチャリングとしてるのは、明らかにブレイキーのアイディアなのではないでしょうか。



これ、ブレイキー=ライオンががっちり組んで作ったのでしょうね。1日で録ってますが。



ここですよ。聴きどころは。このマクリーンのファナティックな音色で指がもつれていようがお構いなしのアルトですよ。で、やんちゃにテーマのメロディそっちのけで先へ先へ進むのがラッパのモーガンですよ。という具合に、ベタなくらいにサーヴィス精神旺盛でリスナーを喜ばせるこのあり方は、マイルス『カインド・オブ・ブルー』が何だがわかんないけども、ずっと売れ続けるのと正反対で面白いですね。



こういう、役者が揃い、展開もおおよそ予想できるにもかかわらず、やっぱり聴くと感動させてしまう辺りが、結局のところ、ハードバップ、ひいてはジャズメッセンジャースの魅力だったのではないかと思います。





渡辺信順の場合



~リー・モーガンの『リー・ウェイ』は水戸黄門である。~







リー・モーガンは印籠係の助さんである。

ジャッキー・マクリーンは肉体を武器にする角さんである。

ボビー・ティモンズは、高給パートタイマーの弥七である。残念ながら、由理かおるではないので、入浴シーンはない。

ポール・チェンバースはうっかり八兵衛である。やはり入(以下同文)

そしてアート・ブレイキーは水戸黄門である。ここはくりかえさない。





……っていうかさ、このアルバム、何をどう語れっていうのかね。実はこのクロスレビュー、本当はもう少し早く書き上げなきゃいけなかったんだけど、全然筆が進まなかった。理由は自分自身の事情で忙しかったというのが建前上の理由。

けどさ、本当のこと言っちゃうと、これ聴いて書くことなどないのだ。何を書いても最後には、「いいから黙って『リーウェイ』聴きやがれ、コラ!」の「コラコラ問答」になっちゃう。







いきなり1曲目でもうタバコの匂いがもモウモウと垂れ込める空間に誘われてしまって、もう音楽を聴くというか、酔っ払うしかないという感じ。

しょっぱなのソロがポール・チェンバースのベースというのも笑えるが(入浴シーンでないのが残念だ)、次にマクリーンが入ってくると、アルバムの出来とか音楽の出来とかもうどーでもよくなってしまってただただマクリーン角さんに身を任せるようにロープに振られ、ラリアットを受けるのだ。ちなみにそういう趣味ではないが。

ブレイキーのご老公が「助さん角さん、もうこのへんでいいでしょう」と言ったのかどうかは知らないけども、リー・モーガンがラッパ吹いちゃうともう何もかもどーでもよくなってしまうというか。フッサールのいうところのエポケーですね。うそです。







モーガンがタバコを吹きながらトランペットを吹いているジャケット写真がいいですね。入浴だったらもっと良かったですね。すいません。しつこくて。ファンキーとは、反復ですからね。

そんなことやってたら肺に悪いっすよとか言いたいけども、オネエチャンに12年後に射殺されるので、まあすきなだけお吸いください。

一切の理屈とか関係なく、ただただ聴くしかないのが『リー・ウェイ』かなっていう気がする。残念ながら入浴シー(以下省略

第3回 クロスレビュー John Coltrane "Love Spreme"(Impulse!)

John Coltrane ”Love Supreme”(Impulse!)



Personnel: John Coltrane(ts), McCoy Tyner(p),Jimmy Garrison(b), Elvin Jones(drms)

Recorded in December 9,1964, New Jersey



Part 1: Acknowledgement Part 2: Resolution Part 3: Pursuance Part 4: Psalm





McLean Chanceの場合





聴きました。大音量で、何度も、何度も。この高温多湿の不快なニッポンの夏の我が家部屋で。昔、ブランフォード・マルサリスが、一ヶ月このアルバムを毎日続けた。と、嬉々とし語っているの思い出したが、ブランフォードのそんな偏執的なところが私は好きだ。



それはさておき、「粋」「かっこいい」「いいかげん」「悪いヒト」「女性にモテモテ」という、当時のジャズメンが持っていたであろう美徳(?)を何一つ持っていないコルトレーンが、ジャズになかった「努力」「根性」「物語」「野暮」をこれでもか!というくらい持ち込んだ本作は、ある意味異形なる偉業であろう。と、頭ではわかっているのだが、どうだろう、この高揚感。録音されてから40年をゆうに過ぎているというのに、この音の力強さは。コルトレーン(とバンドのメンバー)のこの圧倒的な音の力こそ、今の音楽に必要だ。



どちらかというと、日頃コルトレーンを愛聴している方ではない。



よくよく聴けば、コルトレーン、吹きまくってはいるけれども、サイドメンはかなりカッチリ決めていて、ギャリソンのベースと、マッコイのピアノに、クリックさせているから、一見荒れ狂っているように見せかけて、実のところ、相当なボンデージ感がある。この点は、一見整然としているようで、すさまじい丁々発止を繰り広げている、60年代マイルス・クインテットと機を一にしている。時代と共振していった前者と、背を向けてラボ化していった点もちょうど正反対。



しかし、そういう理屈を食いちぎるようにコルトレーンのカルテットは、すさまじい破壊力で聴き手を興奮せざるをえないのだ。コルトレーンの音は、単なる「歴史的産物」を超えた強度を持っている。



4部の組曲構成も、コルトレーンのジワジワと盛り上げていく芸風があってのものであるから、今聴くと、そんなにうっとうしいものではない。まず、強烈な演奏ありきなのだ。



コルトレーンを悪く言う人は、ジャズファンには結構多いのだが、そんなものものはうっちゃって、この人の演奏に虚心に耳を傾けると、この人、要するに、演奏でイッツちゃってるだけなのだ。という、見も蓋もない事実に突き当たるのであり、そのどうしようもない過剰性をこそ積極的に評価したいのだ。



 追伸1:このアルバム、実はたったの約33分である。ちょっと驚いた。音楽の密度が尋常じゃないですね。

 追伸2:夏に聴くものではないです。









渡部信順の場合



久しぶりに通して聴いてみたが、やはり全曲通して聴くにはそれなりの覚悟の必要な作品である。安らぎを与えてくれるような、そんな生易しい音楽とは違う。もっと執念のような何かが音楽にあって、最初から最後まで精神をはりつめて聴かないとコルトレーンに怒られるんじゃないかという錯覚に襲われる。





しかし思うのだけど、この標題ってどうなんだろう。

正直に言うと、この作品、最初の方は返って標題を無視して純音楽的に聴いた方が返って音楽の価値がつかめるような気がする。確かに表現に対する執着心というのは全体に感じるのだけど、後半パート3やパート4と比べれば、パート1とパート2は聴きやすく、それなりにラフに弾いている部分もあるように思う。



だからパート1とパート2はある意味でBGM風に聴けなくもないし、ハードボイルドな演奏なんだと思うことも可能じゃないかと。ただコルトレーンが真剣に吹き出すと状況はやや変わってくるんだけど。





つまり『至上の愛』という標題そのものが、この音楽の持つ自由さを縛り付けている感じがする。エルヴィンもマッコイもジミーも自由闊達に音楽を奏でていくのだけど、コルトレーンの親分が吹くと突然、一定の方向に縛り付けられたようになる。





コルトレーンは吹きながら「オレはこれを言いたいんだ、これを言いたいんだ」と無性に訴えかけてくるかのようで、そこに他の3人がついていかざるを得ない構図というのが感じられるのである。





ジャズ的な即興では、即興で語っているうちに当初の言いたかったことからズレてきて、だんだんそれでいて燃えあがってくるようなものがある。つまり予測不可能なもので、その怖さにのっかるスリルだと思う。



ソニー・ロリンズみたいな人はそういう即興の怖さをよく知っていて、それでもその累卵の危うさの上に乗っかって恐ろしい冒険をいともたやすくやってしまう。綱渡りも馴れてしまうともう平気なのかもしれないが。





ところが、コルトレーンは他の3人がやっていることをあたかも監視しているかのように「ほれ、オレの言いたいことはこれだ、これなんだ」とばかりに語りまくり、吹きまくる。脱線を許さないし、妥協を許さない。変な支配力がそこに働いてエルヴィンたちもトレーンの世界に引き戻される。





そしてそれが行きついてしまったのが、このアルバムの最後、パート4である。

最後に感じられるのは、エルヴィンの恐ろしい音の洪水の上で、コルトレーンがどこまでもおのれの言葉を反復して歌い続けている空恐ろしさである。





標題を無視して聴くように心掛けたはずが、最後にはやはりコルトレーンの標題に連れ戻されてしまう。



「これはこういう音楽なんだ」と納得させようとしているのではないか。





よくも悪くもこれはコルトレーンという人間の、一つの物語が前面に打ち出された作品デあって、言いたいことに対する飽くなき執念のようなものによって全体が支配されている。







普通、音楽の内容とか意味などというものは問うだけ野暮で、音楽の内容を言葉で説明することほど意味のないことはない。



だいたい言葉は言葉に過ぎず、音楽は音楽に過ぎない。説明を始めてしまった瞬間、音楽的な感動というのはどこかに消え去ってしまう。音楽は音楽でしかない。



音楽は言葉になろうとする意志を持ちながら、最終的に言葉にはなれない。



ところが、トレーンには音楽と言葉とを一致させる試みが原理的に可能だと信じている趣がある。



コルトレーンの音楽に感じられる強さは実はそこだと思うし、コルトレーンの魅力の最大のところは、実はコルトレーンのそのような愚直さにあるのではないかと思う。



コルトレーンの音楽を愛する人は、実は、コルトレーンの音楽に対する姿勢を愛しているのであるまいか。







マサ近藤の場合





 すぐれた芸術作品と対峙する際、我々は極度の緊張か弛緩状態に陥る(そうでなければ作品の衝撃によって我々はいとも容易く狂気に追い込まれてしまう)。



 「至上の愛」を聴く際には、以上のことことをよく理解した上で聴かねばならない。



 これは、我々の内部の「黒さ」(血液は赤いが身体の中、暗闇の中を流れている)で感じなくてはならない。音楽理論による技法の説明は科学のそれと同様、我々の理解とは関係ない。



 この作品を聴く際に、ジョン・コルトレーンという、元麻薬中毒者のテナー・サキソフォン奏者(むしろ、この頃は甘いものがやめられなくなっているのだが)によるモード・イディオムの昇華を果たした作品などと考えるのは間違いである。



「至上の愛」とはジョン・コルトレーンの中にあるだけでなく、我々の中にもあるのだから。
 

第2回 クロスレビュー Gene Ammons"Boss is Back ! "(Pretige)

第2回 クロスレビュー 
                                   Gene Ammons "The Boss is Back!"(Prestige) 



Personnel: Gene Ammons(ts), Prince James(ts), Houston Pearson(ts), Junior Mance(p),Buster Williams(b), Frankie Jones(drms), Candido(conga),Sonny Phillips(org),Billy Butler(g), Bob Bushnell(el-b),
Bernard Purdie(drms)

recorded in Englewood Cliffs, New Jersey November 10 and 11, 1969



1,Tastin' the Jug (7:27)

2,I Wonder (7:58)

3,Ger-ru (8:45)

4,Here's That Rainy Day (8:07)

5,Madame Queen (6:52)

6,The jungle Boss (5:42)

7,The Jungle Strut (5:10)

8,Didn't We (6:04)

9,He's a Real Gone Away (5:05)

10,Feelin' Good (5:35)

11, Blue Velvet (4:05)

12,Son of a Preacher Man (4:25)





渡部信順の場合



ジーン・アモンズの味のあるテナーを聴いて、思った一言。 「あ、ベン・ウェブスターだ」 違う違う。 ジーン・アモンズである。 しかしながら、この音色は聴いているだけでマリファナの香りやらタバコの匂いがしてくる。そういう音色こそまさにベン・ウェブスター直系だと思うんだけど、僕だけかしら。

ま、いずれにせよ、ジャズというのは本当に音に秘められたテイストの音楽と言いたくなる。そういう音楽がここにある。それ以上の説明はここでは野暮だとしか言いようがない。 ボスだとか言われるので、もっと熱い演奏なのかと思った。 もちろん熱はそこにある。

しかしそれは単なるテンションに出るのではなく、テナーサックスの音色の味わいに出てくるのである。 音は太く、どっしりとして腰が据わっている。軽業師のような小手先の芸は彼には無縁である。それでいてフレーズに独特の味わいがあり、間の空け方が絶妙。結果として夜の煙にむせび泣くような、大人の哀愁を感じさせるテナーになるのである。ほとんどテナーを吹いているというか、もうタバコを吹いているんじゃないかと思う。 ただベン・ウェブスターと少し違うのは、どこか音に女を口説き落とすような、低音の男の言葉がある。ベン・ウェブスターでも充分、女は口説き落とせると思うが、それ以上に艶かしい音色がジーン・アモンズだろう。 耳元で熱いささやきを女に向かって吹きかけている、そんな粋な男がジーン・アモンズという音色なのだろうかという気がした。





マサ近藤の場合



私が私である以上、客観は存在しない。以下の文章は私が私に忠実であるための文章で

あり、極力技巧を凝らさぬように書いたものである。(技巧は忠実さに欠いてしまう恐れが

ある)



これはスタイルではない。これは流儀だ。



このジーン・アモンズのテナーサックスのサウンドは歌ではない。沈黙を彼方に追いや

る笑いだ。苦痛によって引き剥がされた感情である笑いは引き離されたときに我々の手か

らうっかりすべり落ちてしまった。今もジーン・アモンズのテナーサックスのサウンドは

落下を続けている。



※打楽器奏者が二名いるにも関わらずアンサンブルの重厚に欠いた部分を聴いて欲しい。

これは重厚さが本質とは何の関係も無いことをあらわしているではないか。





McLean Chanceの場合



もし、アモンズがジャズ界に100人いたら。なんて、妄想してみると、優秀なテナー奏者の遺伝子を全世界にばら撒いてくれるであろうなあ。と、思う。とりわけ、「少子高齢社会」などという全くもって不名誉な汚名を着ることとなったニッポンには、少なくともアモンズが10人は必要であろう。

アモンズのテナーの魅力は、理屈ではない。男そのものである。漢、いや、侠であろう。テナー一本をさらしに巻いて、嵐寛寿郎扮する親分(必ず、敵方の組に襲撃されて寝たきりである)に黙って小雪のちらつく闇夜に消えていく。「親分、行ってめえりやす。」

 ジャズとは夜の音楽。イケナイ都会の大人の音楽である。ジーパンにTシャツ、スニーカーに、ソプラノサックスなんぞを抱えて、真昼の野外にやるものではないし、缶ビールなんぞを飲みつつ、芝生に新聞紙を敷いてみる音楽などではない。そんなものは犬にくれてやるがいい。

 ためしに「アイ・ワンダー」を聴くといい。7分にもならんとする、アモンズの底なしのバラードがあれば、ジャズは全く大丈夫なのである。しかし、この深く美しい、ふくよかな音色を、一体何にたとえたらいいだろう。

  アモンズの人生は、あと5年である。そのことを知ってか知らずか、彼はトコトンぶっとく吹き続け、あっけなくこの世を去った。塀の向こうから帰ってきたら、残り時間はあまりなかったのである。男は黙ってジーン・アモンズのテナーを聴くものである。

  「男とは何ぞや?回答せい!!」と、言った漫画があったが、その回答がここにある。

  尚、現行のCDは、『ブラザー・ジャグ!』と曲順が混ざった形で発売されているが、もともと、2つのセッションからこの2枚が製作されているので、違和感はない。

第1回 紙のジャズ クロスレビュー Lee Konitz "I Consentrate on You"(Steeplechace)

第1回 紙ジャズ クロスレビュー 
                        Lee konitz "I Consentrate on You"(Steeplechace)


   personel : Lee konitz,alto sax Red Mitchell,bass,piano

    1、Just One of Those Things 5;08

    2、Just One of Those Things take7 3:04

    3、Easy to Love 3:13

    4、It's All Right with Me 2:59

    5、Everytime We Say Goodbye take1 2:47

    6、Everytime We Say Goodbye

    7、You'd Be So Nice to Come Home To 3:45

    8、Love for Sale 5:15

    9、In the Still of the Night 2:10

  10、Night and Day take1 5:12

  11、Night and Day 3:54

  12、I Love You 3:34

  13、I Love Paris 3:22

  14、I Concentrate on You 9:13


All Compisitions by Cole Porter







渡部信順の場合





剥き出しにされた意図



リー・コニッツ『アイ・コンセントレイト・オン・ユー』を聴いてみた。

最初はあんまり期待してなかったのに、CDかけだしたら「あちゃ~、コニッツさん、ごめんなさい。甘く見てました」と頭を下げざるを得なかった(笑)。



このアルバム、ベースのレッド・ミッチェルとアルトサックスのリー・コニッツのデュオ作品なんですが、これがリー・コニッツ特有の難解さをふっ飛ばすことに見事に成功して、コニッツの言いたいことが実に如実に伝わってくる。加えてレッド・ミッチェルの見事なベースプレイには脱帽。このベースだけをおかずにして、僕ならご飯3杯は食べられる。



なんというか、コニッツの枯れたアルトの音色と一瞬のインプロヴィゼーションにかける鮮烈さが迫ってくるんですね。アルトの背後で鳴っている音が少ないために、コニッツの音色がまるで闇から浮かび上がって、たった今生まれたように響く。空々しいものもそこにはないし、一瞬にかけた音楽しかそこにはない。1曲目の“Just One of Those Things”と4曲目の“It's All Right with Me”が特にそんな印象が強い。



ただ、だからといって、緊張感に漲ったような凄絶な音楽というわけでもなくて、むしろレッド・ミッチェルとリー・コニッツという玄人たちが、ちょっと小粋なセッションに臨んだような気楽さがある。あんまり気負いみたいなのがないんですね。



だからリー・コニッツの音色に少しばかり屈託がなくなって、自然な呼吸で日頃やっている難しいことを素直に歌ってくれている。その伴奏に少しばかり小粋なベースが絡んでいるという印象があるわけです。



リー・コニッツというと僕などは『サブコンシャス・リー』とか『モーション』とかの印象というか先入観があって、レニー・トリスターノ・スクールの卒業生で、ちょっと近づき難いものを感じていたんですが、これを聴くとコニッツはあくまでコニッツで素直な音楽をやっていただけで、要するに僕自身がその音楽のコツを聴き取るのが苦手だったんだなあと改めて感じました。



音楽を虚心坦懐になって聴くということは意外と難しいもので、僕などはできないことの方がむしろ多いんですが、この1枚は乗っかっている楽器が少ない分、音楽をある意味“虚心坦懐”に聴くことのできるアルバムのように感じます。

緊張感と気楽さが不思議に同居していて、繰り返し聴きたくなってしまう1枚。

コニッツ入門に最適なんじゃなかろうか。




McLean Chance の場合





「トリスターノ門下」だの、「インプロヴィゼーションの鬼」だの、そんな偏見(偏聴?)はこの際一切捨てることだ。

だいたい、こんなむき出しでヨタりながらアルトを吹くコニッツを、一般的なジャズファンはお目にかかっただろうか?

ハッキリいって、テクニックは、昔日のものだろう。あの大傑作『モーション』と比べるべくもない。「You’d be So Nice to Come Home to」が再演されているが、あのような死闘のようなすさまじい演奏ではない。アドリブの冴えで聴かせてはいない。が、しかし、それでも俺にはジャズしかない。という、このジャズバカの、みもふたもないこの男の歌に、私は酔いしれるのである。この男にウソはない。

それにしても、コニッツにコール・ポーターの曲を演奏させよう。というアイディアはすばらしい。ポーターの曲というのは、単純な笑いとか泣きといった分類の出来ない曲が多く、コニッツという屈託が多い男が演奏するにはピッタリだ。

とりたてて聴かせようとか、泣かせようという魂胆がないにも関わらず(というか、コニッツには昔からそういうところが希薄だ)、この1974年という、コニッツ史的には、とりたてて劇的な何かが記されているわけでもないこのアルバムにただようしみじみとした情感は一体どうしたことだろう。



ジャズとは、生き様そのものなのだ。などと言ってしまったら、何の説明にもなりはしまいが、そうとしか言いようのない、聴き手をひきつけてやまない何かがここにはある。



こういうものを聴いてしまうと、ジャズというものはますますやめられなくなってしまう。



さて、ここまで書き進めながら、レッド・ミッチェルについて何も記さないのは、やはり不当といわなければならないだろう。

なぜなら、彼こそがこのアルバムの品位というか、クオリティを高めている最大の功労者であるからだ。



低く、伸びやかに、そして確実によたるように吹きまくるコニッツをしっかりさせているのは、彼のベースなのであって、他の連中であったら、一緒によたれて、全くの駄演に陥ってしまった可能性が高いだろう





そういう意味で、コニッツは共演者に左右されると言う点では、やはり『モーション』と同じことが言え、その観点から見れば、ソニー・ロリンズと同じタイプのジャズメンなのだろう。



ジャズ史的には全く無視してもよいのかもしれないが、ジャズ地獄というものが一体どういうものなのか、ジャズという得体の知れない怪物に人生を狂わせてしまった男の顛末というものは一体どういうものなのかを知るには、格好の1枚だろう。





マサ近藤の場合





味のある顔



「味のある顔」というのはつまらないものだ。芸術家用である。



愛はそんな顔を見さえしない。



ジャン・コクトー





リー・コニッツという顔がややむくんだジャズサキソフォン奏者。彼の顔が「つまる」のか「つまらない」のかは別である。そんなものは見ることも考えることも必要ない。



ジャズにおける旋律は単にきらびやかな装飾を施すだけではいけない。装飾は力を分散させながら集約するものであり、計算され尽くしていなければならない。ゴティック建築のように。





I Love you



いつ どこで この言葉を言うのか?人によって様々だがこれほど広い言葉は無い。リー・コニッツとレッド・ミッチェルの奏する「I Love you」がどのような時と場所を漂うのか?

移籍しました。

えー、パスワードがわからなくなり、ログインできなくなりまして(笑)、改めてブログを作り直しました。