2010年8月16日月曜日

第8回クロスレビュー John Zorn "News For Lulu"(Hat Hut) & 梅津和時”梅津和時、演歌を吹く。”(doubtmusic)

McLean Chanceの場合




80年代当時、ジョン・ゾーンが、ギター、トロンボーンのトリオで、ハードバップをやる。ということがどのように受け止められたのかは、寡聞にしてよく知らないが(まあ、当時のゾーンのファンは、何をやっても喜んでいたと思いますが)、今聴いても、本当にヘンテコなアルバムだなあ、これ(笑)。

こういうのを作ろうとするゾーンの気持ちはわかりすぎるほどわかりますよ。

演奏している曲の作曲者をあげてみると、ハンク・モブレー、ソニー・クラーク、フレディ・レッド、ケニー・ドーハム。これって、ハードバップファンが大好きな人たちばかりですよ。

要するに、ゾーンは熱狂的なバップ愛好家なのですね。

普段は、ブキョー!!と、景気よくノイジーなアルトで聴き手を痙攣的な快感に叩き込むゾーンが原曲をほとんど壊すことなく演奏し、かつ、ほとんどの演奏が3~5分のコンパクトなものにまとめられているのも、パンクスとしてのゾーンよりもジャズマニアとしてのゾーンの姿勢が勝っているといってよいだろう。

しかし、バップを80年代にそのまんまやったりはしないのが、ゾーンなんだね。

ジャズにはつきもの、ドラムをあえてはずして、更に言えば、バップのような、テーマ~メンバーによるソロまわし~テーマから、ソロは、ほぼゾーンのみにして(インタープレイ気味の展開もあるが)、通常のハードバップの演奏の半分ほどに縮めている。

まあ、この辺は、ゾーンでなくてもやりそうなんですけども、問題はその出てくる音。

まあ、バップどころか、ジャズのもつテイストが脱色してしまったように感じられないのだ。

なんというか、蒸留水を飲んでいるような感じというのか。

更に、ハードバップは、ビ・バップよりも洗練されてきてるものの、やはり、盛り上がる音楽なわけだが、恐ろしいほどに盛り上がらない。

これは、最後についているライブ録音の3曲も全く同じで、同じ素材を扱いながらも、あまりに異質な音楽に成り果てているのだ。

でも、おそらくとてつもなく好きであろうバップの名曲をこんな風に鼻でくくったみたいに演奏するゾーンたちはどういう風かねえ。というのは、さておき、一方の梅津の演奏は、のっけからすごいテンション(笑)。

聴いてるこちらが恥ずかしくなってくるまでに、ストレートにブロウしまくる。歌いまくる。テーマをやってアドリブなんてこともナシ。原曲をひたすらアルト、ソプラノ、クラ、バスクラで思いのままに吹くまくる。「ジャズ」なんかやろうとしないのである。

そして、その聴き始めの気恥ずかしさは、梅津の熱演によってどこかにいってしまい、その熱いブロウに聞き惚れてしまうのである。

しかし、よく考えてみると、梅津はゾーンとそれほど年齢は変わらないはずだ。そして、ゾーンとともに、80年代をともに生き抜いて今日至ったのである。

何の考えもなく、演歌をただブロウしたのではないのだと思う。

単純なことだが、梅津の演奏は、無伴奏ソロ。ホーン奏者としてはあまり行わない編成である。

しかし、私はここで、ピアノ、ベース、ドラムをこの梅津の演奏につけてみたらどうなのか。と、ちょっと想像してみたのだが、これはたまらないほどつまらない演奏が頭の中で鳴った(笑)。

これは、プロデューサーのはっそうなのか、梅津自身の発想なのかは、知らないけども、リズムセクションを一切つけないことと、ヘタにアドリブさせない。というのは、当初から考えられていたのだと思いますね。

演歌、というよりも、東アジアの伝統的な音楽は、どちらかというと、律動よりは、歌い回しが重要な要素なわけだから、ヘタにジャズのリズムをつけたら、演奏が窮屈になってしまう。というか、ダサい。

そんなことは、知性派の梅津がするはずもない。

だから、形式としてのジャズなどはなから放棄して、演歌のもつエモーションやパワーに忠実であることで、このアルバムを秀逸なものにしたのではなかろうか。

ジャズメンとしては、その演奏にこめる熱気や気合、根性にこそ、ジャズがある。という矜持をもって演奏したのではないかと推察され、ゆえにジャズアルバムではないにもかかわらず、このアルバムをレビューに取り上げた次第なのである。

さて、そろそろ、まとめに入らねばならなくなったが、問題として先送りしてしまった、ゾーンの演奏態度であるが、これは、こういうことだろう。

ゾーン以下の3名はいずれもその楽器の名手であり、やろうと思えば、ハードバップをそのまま演奏することなど、わけはない。が、そこには、モブレーのテナーの持つ黒さや、ドーハムのちょっと詰まったような抜けの悪い音、ソニー・クラークのもつれ気味の指から繰り出される暗さやはかなさは、果たして再現できえるだろうか?

おそらくは、ゾーンは、ハードバッパーのもつクセやアクのようなものを獲得することを、ミュージシャンとして生きていくうえではじめから断念しているところがある。

そういうものとの決別が、彼の即物的で超絶的なテクニックを持ちながら、どこかパンキッシュなゾーン独特のアルトサックスのプレイが完成して言ったのだろうけども、それは、このハードバップ集を演奏しているときも一緒であり、というか、彼が何よりも好きなジャズを演奏しているがゆえに、そこが殊更際立ってくるのではなかろうか?

再現不可能なものへの愛。そういう、アンビバレントが、ゾーンの創作の根源にあるのだろう。

梅津は、80年代に「明るい前衛」を確立し、前世代のフリージャズの持つ、シリアスさを軽々と乗り越えてみせるフットワークの良さを、聴き手に鮮やかに提示してきたが、本作では、むしろ、ジャズという、梅津にとってもっとも重要なフォーマットすら捨て去り、演歌という、梅津の世代には、「ダサいもの」として捨て去ろうとしたものに向き合い、真っ直ぐに熱演する。

あたかも、ルーツバックから、ジャズメンとしての何かを確認しているかのようである。

両アルバムの間には20年ほどの時間の経過があるのだが、何を獲得しようとし、何が喪失したのかが、この2作を見るとよく見えてくるように思うのだが、どうだろう。
 

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