2010年8月16日月曜日

第7回 クロスレビュー  Hank Mobley Quintet(Blue Note) & Roll Call(Blue Note)

Hank Mobley : Hank Mobley Quintet(Blue Note)

Hank Mobley(ts), Art Farmer(tp), Horace Silver(p), Doug Watkins(b),

Art Blakey(drms)

Recorded at the Rudy Van Gelder Studio in EnglewoodCliffs, New Jersey

on May 8, 1957



Hank Mobley : Roll Call(Blue Note)

Hank Mobley(ts), Freddie Hubbard(tp), Wynton Kelly(p), Paul Chambers(b),

Art Blakey(drms)

Recorded at the Rudy Van Gelder Studio in EnglewoodCliffs, New Jersey

on November 13, 1960





McLean Chanceの場合



こりゃ、フレディ・ハバートを聴くアルバムだよねえ。あ、『ロール・コール』のことですがね、さて、タイトル曲「ロール・コール」を聴いてみますと、ブレイキーお得意の嵐のようなドラミングから曲が快調に始まりまして、さあ、我らがモブレーが以外にもハードにソロをとるものですから、結構、この人やれるんだなあと。ちょっともつれ気味だけども。

しかし、2番手にフレディが始まるともういけません。いや、フレディがいけないんじゃなくて、モブレーがいけないわけです。なぜ?そりゃ、フレディーのが、輝かしいソロをとっちゃって、サイドも一緒くたに燃えまくってるんですもの。

じゃあ、2曲目「マイ・グルーヴ・ユア・ムーヴ」はどうかというと、これもね、フレディのがずっといいわけですね。要するに、A面はフレディなんですね、これ。

モブレーって人は、どこか人が良いのか、自分よりもサイドメンが目立っちゃうアルバムを平気で作っちゃう人なのですが、これなんてその典型ですね。

 なものですから、ジャズ史にその名を今ひとつ残せていないのですが、しかし、モブレー、初代メッセンジャーズですので、実力者なのですよ。

で、それが味わえるのが、『ハンク・モブレー・クインテット』なわけです。これは、トランペットがアート・ファーマーだからいいんですよ。

ファーマーは、フレディみたいにバリバリ吹かないで、知的な抑制が効いた端正なスタイルなので、モブレーの控えめなスタイルにピッタリですね。

「ファンク・イン・ディープ・ブリーズ」のくつろぎと黒さといったら見事という他ないですねえ。モブレーの名演の1つといっていいでしょう。で、これはモブレーが素晴らしいのはもちろんのこと、ファーマーとの相性が素晴らしいのです。

もう1つ特出すべきは、ベースのダグ・ワトキンスですね。『ロール・コール』のポール・チェンバースだって名手ですよ。あの、マイルス・クインテットの屋台骨だったのですから。しかし、ワトキンスの巨木の根っこのように太くて温かみのあるベースって、ちょっとバップに限定すると、見当たらないですよ。ワトキンスって、淡々とリズムを刻んでるだけなのですが、それだけで存在感があって、演奏をしっかり支えてるんですよ。

ソニー・ロリンズの名盤『サキソフォン・コロッサス』も、ベースがワトキンスであることをお考えいただければ、ワトキンスがハードバップ最強じゃないのか。というのは、あながち大げさな意見じゃないと思いますけども。

 それはともかくとして、『ロール・コール』は、フレディを楽しむアルバムであり、『ハンク・モブレー・クインテット』こそが、モブレーの魅力を伝えてるってことが、言葉のうえじゃなく、聞き比べた実感からわかるようになれば、貴方の「ジャズ耳」は、それだけ成長したってことになると思います。

あと、蛇足ですが、モブレーって、ほとんどメッセンジャースとホレスのコンボの人ばかり起用してますね。というか、ホレスとブレイキーという、お互いに一家をかまえている個性の強いミュージシャンが共演するにおいて、モブレーの控えめさは、ちょうど緩衝材の役割だったのかもしれませんね。

これはあまり指摘されてませんけども、モブレーって、リーダー作は自作曲がとても多いですよね。『クインテット』は全曲自作ですし、『ロール・コール』も、6曲中5曲が自作です。とすると、モブレーは、メッセンジャース人脈を駆使して、自分の曲をうまく演奏してくれるアルバムを作りたかったのかもしれませんね。自分は、音楽監督として存在すると。 そう考えると、『ロール・コール』も彼の意図通りの作品なのかもしれません。

いずれにせよ、どちらもハードバップの名品であります。







マサ近藤の場合



聴覚のパースペクティヴ~スノッブの会話より~





「タイトルに『パースペクティヴ』だなんて、君らしくないじゃないか。こういったカタ

カナ言葉は嫌いだろう?」





「『パースペクティヴ』。意味は『遠近法』だけれども、『聴覚の遠近法』じゃあ、いささか大袈裟にすぎやしないかい?確かに僕はカタカナ言葉は好きじゃないけれど、それは軽さや衒学趣味が鼻につくからさ。ここでは敢えてその軽さを逆手に取ろうというわけだね」





「なるほど。でも、今回のアルバムと関係あるタイトルなのかい?『聴覚』を扱うのならば、何もこのセレクトじゃなくたっていいだろう?」





「そうだね。実を言うと、このタイトルにこのセレクトでなくてもよいわけさ。でも考えてもみたまえよ。ドストエフスキーの小説『白痴』と『悪霊』の表紙を交換して読み続けていたとしたら平均的な『白痴』、『悪霊』像とは全く異なって解釈するだろうよ」





「そういった言葉は敵を作るのが大好きな君らしいけれど、でもそれは二つの『悪霊』なり『白痴』を読み比べなければわからないよね。それとも、そうやって引っ掻き回すこ

とそのものを楽しみたいのかな?」





「いやいや、引っ掻き回すだけじゃあ芸がないよ。そもそも、僕は引っ掻き回そうなんて微塵も思っていないんだから。僕は頭が良さそうに見せるのが大好きな鼻持ちならない連中がよく口にする、「違った角度から見る」っていうことがどれだけ突飛なことかをちょっとばかりからかってやっただけさ」





「なるほどね。ところで、今回のセレクトはハンク・モブレーの『ロール・コール』と『ハンク・モブレー・クインテット』だけれど、聴いてみてどうだい?正直な所、

僕にはBGMにしか聴こえなかったのだけれども」





「ふむ。おそらく、BGMというのはどこか馬鹿にしたような意味合いが含まれるね。まぁ、君はそういう意味で言ったんじゃあないと思うけれど。僕が思うに、音楽芸術はその作品自身が持つエネルギーを一気に使い果たしてしまうところに重心が置かれていると思うんだな。こう言っちゃあなんだけれど、演奏されたその場所以外では総て“残りもの”と言っていいかもしれない」





「それは随分と大袈裟な話だね。しかしながら、現代ではその“残りもの”で成り立っている代物がほとんどだよね」





「そのとおり。そして僕らは「残りもの」の重箱の隅をこれでもかと突いているわけさ」





「それはちょっとシニカルにすぎるってものだよ。社会、文化活動が絶対精神に辿り着くことはないとしても、それが僕らにとって有意義であるかそうでないかを判断したり、気楽に楽しんだっていいわけだから」





「僕はシニカルだし、気楽に楽しんでもいるよ」



           *  *  *  *  *



「さっき、このタイトルはアルバムのセレクトとは関係ないと言ったけれども、やっぱり少し関係あるかな?」





「というと?」





「つまり、『聴く』という行為には必ず近さ/遠さがあると思うんだな。集中して聴いているからといって、その曲のコード進行や形式、アドリブ・ソロの展開などを本当にキチンと聴いているかというとそういうわけではなくて、むしろアヤフヤに聴いているときにこそ全体を認識していたりすると思うんだ。たとえば、僕らは普段散歩したりするときに何気なく景色を見ているけれど、そのとき特にどこかに焦点をあてて見ているということはあんまりないと思う。焦点をあてるとき、対象の物体、人物以外のまわりの景色は『ないもの』になるよね。間違った画家はその『ないもの』を切り落として描いてしまうし、間違った音楽家は『ないもの』を切り落として表現してしまう。まぁ、要するにリラックスなんだけれども、そのリラックスと集中のバランスをとることに成功する人間はほとんどいないというわけさ」





「なるほど。随分横道に逸れたけれど、一応それらしく片がついたね」





「 話としては横道にそれっぱなしかもしれないけれども、そういったことをセレクトされた二枚から考察していくというスタンスもまぁ、たまには良かったんじゃあないかな?そういった意味でもいいテクストだと思うね」









渡部信順の場合




いやはや、黄昏だねえ。

なんていうのか、モブレーのテナーを聴いていると、論評するのが野暮になってしまいますよね。

どちらもドラムスはアート・ブレイキーなんだけど、この調子のよい鍛冶屋みたいなドラミングに乗っかって、「たそがれた歌」を歌うモブレーのテナーがまあなんと心地よいことか。



これ、わかる人にしかわかんないかも。





でも、それじゃ身も蓋もないわけで、聴きながら、「モブレーのわからなさ」ということとはなのかと愚考してみますが、音が「プ~」じゃなくて「ブップゥゥゥウ~」って書いて、何がわかりますか?長嶋茂雄じゃないんだから。もうちょっと、この辺の感覚を翻訳してみると、一つの音の中に微妙な揺れがあって、その揺れが彼の言い回しなのだと思います。で、もっと言ってしまうと、ハードバップってそういう「言い回しの美」なんじゃないのかなと。





それがハードバップの全てなのだ。なんて言わないけど、重要な核心部分として、一つの音の中にいろんな感情とか言葉とかが揺れ動いていて、その音を出す/出さないのタイミングに命があるような気がするんですね。それを「ノリ」とか「タメ」とか言うのかしら。



う~ん、わかっていただけるだろうか。この感じ。





ぶっちゃけてしまえば、ハンク・モブレーの音楽は、この1950年代~60年代初頭の「ハードバップ」という枠組の中で初めて活かされるものです。どこか突き抜けた向けたものがないのは、そのせいです。





確かにマイルス・コンボ在籍時のモブレーを聴いていると、やはりマイルスのやりたいことと齟齬を感じますよね。





そうなると、60年代以降は、どこか中途半端な立ち居地でモブレーは勝負せざるを得なかったのかもしれませんね。





まあ、そんな歴史的解釈は今はおいておいて、この『クインテット』と『ロール・コール』を聴いてごらんなさい。





音数の多くないモブレーのフレーズには、絶妙の音の揺れやタメがあって、これが見事にハードバップというフォーマットの中で息づいていることを確認します。

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