John Coltrane ”Love Supreme”(Impulse!)
Personnel: John Coltrane(ts), McCoy Tyner(p),Jimmy Garrison(b), Elvin Jones(drms)
Recorded in December 9,1964, New Jersey
Part 1: Acknowledgement Part 2: Resolution Part 3: Pursuance Part 4: Psalm
McLean Chanceの場合
聴きました。大音量で、何度も、何度も。この高温多湿の不快なニッポンの夏の我が家部屋で。昔、ブランフォード・マルサリスが、一ヶ月このアルバムを毎日続けた。と、嬉々とし語っているの思い出したが、ブランフォードのそんな偏執的なところが私は好きだ。
それはさておき、「粋」「かっこいい」「いいかげん」「悪いヒト」「女性にモテモテ」という、当時のジャズメンが持っていたであろう美徳(?)を何一つ持っていないコルトレーンが、ジャズになかった「努力」「根性」「物語」「野暮」をこれでもか!というくらい持ち込んだ本作は、ある意味異形なる偉業であろう。と、頭ではわかっているのだが、どうだろう、この高揚感。録音されてから40年をゆうに過ぎているというのに、この音の力強さは。コルトレーン(とバンドのメンバー)のこの圧倒的な音の力こそ、今の音楽に必要だ。
どちらかというと、日頃コルトレーンを愛聴している方ではない。
よくよく聴けば、コルトレーン、吹きまくってはいるけれども、サイドメンはかなりカッチリ決めていて、ギャリソンのベースと、マッコイのピアノに、クリックさせているから、一見荒れ狂っているように見せかけて、実のところ、相当なボンデージ感がある。この点は、一見整然としているようで、すさまじい丁々発止を繰り広げている、60年代マイルス・クインテットと機を一にしている。時代と共振していった前者と、背を向けてラボ化していった点もちょうど正反対。
しかし、そういう理屈を食いちぎるようにコルトレーンのカルテットは、すさまじい破壊力で聴き手を興奮せざるをえないのだ。コルトレーンの音は、単なる「歴史的産物」を超えた強度を持っている。
4部の組曲構成も、コルトレーンのジワジワと盛り上げていく芸風があってのものであるから、今聴くと、そんなにうっとうしいものではない。まず、強烈な演奏ありきなのだ。
コルトレーンを悪く言う人は、ジャズファンには結構多いのだが、そんなものものはうっちゃって、この人の演奏に虚心に耳を傾けると、この人、要するに、演奏でイッツちゃってるだけなのだ。という、見も蓋もない事実に突き当たるのであり、そのどうしようもない過剰性をこそ積極的に評価したいのだ。
追伸1:このアルバム、実はたったの約33分である。ちょっと驚いた。音楽の密度が尋常じゃないですね。
追伸2:夏に聴くものではないです。
渡部信順の場合
久しぶりに通して聴いてみたが、やはり全曲通して聴くにはそれなりの覚悟の必要な作品である。安らぎを与えてくれるような、そんな生易しい音楽とは違う。もっと執念のような何かが音楽にあって、最初から最後まで精神をはりつめて聴かないとコルトレーンに怒られるんじゃないかという錯覚に襲われる。
しかし思うのだけど、この標題ってどうなんだろう。
正直に言うと、この作品、最初の方は返って標題を無視して純音楽的に聴いた方が返って音楽の価値がつかめるような気がする。確かに表現に対する執着心というのは全体に感じるのだけど、後半パート3やパート4と比べれば、パート1とパート2は聴きやすく、それなりにラフに弾いている部分もあるように思う。
だからパート1とパート2はある意味でBGM風に聴けなくもないし、ハードボイルドな演奏なんだと思うことも可能じゃないかと。ただコルトレーンが真剣に吹き出すと状況はやや変わってくるんだけど。
つまり『至上の愛』という標題そのものが、この音楽の持つ自由さを縛り付けている感じがする。エルヴィンもマッコイもジミーも自由闊達に音楽を奏でていくのだけど、コルトレーンの親分が吹くと突然、一定の方向に縛り付けられたようになる。
コルトレーンは吹きながら「オレはこれを言いたいんだ、これを言いたいんだ」と無性に訴えかけてくるかのようで、そこに他の3人がついていかざるを得ない構図というのが感じられるのである。
ジャズ的な即興では、即興で語っているうちに当初の言いたかったことからズレてきて、だんだんそれでいて燃えあがってくるようなものがある。つまり予測不可能なもので、その怖さにのっかるスリルだと思う。
ソニー・ロリンズみたいな人はそういう即興の怖さをよく知っていて、それでもその累卵の危うさの上に乗っかって恐ろしい冒険をいともたやすくやってしまう。綱渡りも馴れてしまうともう平気なのかもしれないが。
ところが、コルトレーンは他の3人がやっていることをあたかも監視しているかのように「ほれ、オレの言いたいことはこれだ、これなんだ」とばかりに語りまくり、吹きまくる。脱線を許さないし、妥協を許さない。変な支配力がそこに働いてエルヴィンたちもトレーンの世界に引き戻される。
そしてそれが行きついてしまったのが、このアルバムの最後、パート4である。
最後に感じられるのは、エルヴィンの恐ろしい音の洪水の上で、コルトレーンがどこまでもおのれの言葉を反復して歌い続けている空恐ろしさである。
標題を無視して聴くように心掛けたはずが、最後にはやはりコルトレーンの標題に連れ戻されてしまう。
「これはこういう音楽なんだ」と納得させようとしているのではないか。
よくも悪くもこれはコルトレーンという人間の、一つの物語が前面に打ち出された作品デあって、言いたいことに対する飽くなき執念のようなものによって全体が支配されている。
普通、音楽の内容とか意味などというものは問うだけ野暮で、音楽の内容を言葉で説明することほど意味のないことはない。
だいたい言葉は言葉に過ぎず、音楽は音楽に過ぎない。説明を始めてしまった瞬間、音楽的な感動というのはどこかに消え去ってしまう。音楽は音楽でしかない。
音楽は言葉になろうとする意志を持ちながら、最終的に言葉にはなれない。
ところが、トレーンには音楽と言葉とを一致させる試みが原理的に可能だと信じている趣がある。
コルトレーンの音楽に感じられる強さは実はそこだと思うし、コルトレーンの魅力の最大のところは、実はコルトレーンのそのような愚直さにあるのではないかと思う。
コルトレーンの音楽を愛する人は、実は、コルトレーンの音楽に対する姿勢を愛しているのであるまいか。
マサ近藤の場合
すぐれた芸術作品と対峙する際、我々は極度の緊張か弛緩状態に陥る(そうでなければ作品の衝撃によって我々はいとも容易く狂気に追い込まれてしまう)。
「至上の愛」を聴く際には、以上のことことをよく理解した上で聴かねばならない。
これは、我々の内部の「黒さ」(血液は赤いが身体の中、暗闇の中を流れている)で感じなくてはならない。音楽理論による技法の説明は科学のそれと同様、我々の理解とは関係ない。
この作品を聴く際に、ジョン・コルトレーンという、元麻薬中毒者のテナー・サキソフォン奏者(むしろ、この頃は甘いものがやめられなくなっているのだが)によるモード・イディオムの昇華を果たした作品などと考えるのは間違いである。
「至上の愛」とはジョン・コルトレーンの中にあるだけでなく、我々の中にもあるのだから。
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